白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 18
甲子園だけが高校野球ではない・・・
36回大会では甲子園へ辿りつけなかった大投手の功績と栄光。
37回大会では、現在の六甲アイランドの前身、
市立神戸商業が春のリベンジマッチを制して初優勝した。
父なる大監督 釜内氏と歩んだ兄弟共の甲子園。
かけがえのない一生の思い出が紹介されている。
六甲アイランドは市立神戸商業と赤塚山(懐かしい校名だ・・・)が統合して開校。
37回大会以降、長きに渡り甲子園へ帰っていない。
100回大会には前身2校の先輩の分も、六甲アイランドとして初Vを!
第36回大会(1954年)
~住友工・村山実が快投~
母校住友工高の跡地に接地されている村山実の銅像
滝川が2度目の優勝を飾った1954(昭和29」年の第36回大会は、
後にプロ野球史に名を刻む大投手が足跡を残している。
尼崎・住友工のエース村山実。
関大を経て大阪(現阪神)入りし、通算222勝をマーク。
「ミスタータイガース」と称されたレジェンドだ。
村山が入学するまで住友工は夏の大会1勝が最高戦績だったが、
2年生夏の4回戦まで導くと、3年生春は近畿大会で4強入り。
夏の第36回大会は2回戦の市西宮戦で2安打完封、
4回戦の西脇戦では3安打完封。
準々決勝で明石に1-2で惜負したものの、
将来の大成を予感させる快投でチームを躍進させた。
98年の死去後、住友工の後身、尼崎産の敷地内に銅像が設置された。
2013年、統合に伴う同校閉校後も銅像は跡地の
県立尼崎総合医療センター内に立ち、功績を伝え続けている。
神戸新聞 松本 大輔氏
第37回大会(1955年)
~釜内氏率い市神戸商初V~
第37回大会で初優勝した市神戸商ナイン
(兵庫県高校野球五十年史より)
戦後10年の1955(昭和30)年。
第37回大会は、後にプロ野球で完全試合を達成する森滝義巳を擁した
兵庫などの強豪を押しのけ、市神戸商が初優勝をさらった。
決勝は、春の県大会で1-16と大敗した明石に4-2で雪辱。
当時の4番打者、津田朝良(80)は
「OBにめちゃくちゃ絞られたから、気合は入っていた」と回想する。
監督の釜内和夫は2年後の57年から40年間、兵庫県高野連理事を努め、
兵庫の高校野球発展に尽力した人物だ。
津田にとって釜内は「家族も同然の恩人」としのぶ。
戦死した兄は北神商のエースとして釜内監督の下、39年の選抜大会に出場。
「私も就職の世話や仲人までしてもらった。豪快な先生で、本当にいいおやじだっだ」
市神商は赤塚山と統合し、98年に六甲アイランドが開校。
甲子園出場は55年が春夏通じて唯一である。
神戸新聞 山本 哲志氏
兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)
兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
第15回大会(1929年)
兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
第22回大会(1936年)
兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)
兵庫球児100年のあしあと 10
第24回大会(1938年)
兵庫球児100年のあしあと 11
第25回大会(1939年)
兵庫球児100年のあしあと 12
第26回大会(1940年)
兵庫球児100年のあしあと 13
第27回大会(1941年)
兵庫球児100年のあしあと 14
第28回大会(1946年)
第29回大会(1947年)
兵庫球児100年のあしあと 15
第30回大会(1948年)
第31回大会(1949年)
兵庫球児100年のあしあと 16
第32回大会(1950年)
兵庫球児100年のあしあと 17
第33~35回大会(1951~53年)
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兵庫球児100年のあしあと 18
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