白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 15
戦後の混乱期の中 、学制改革により「高校野球」が始まった第30回大会。
「高校野球」元年の優勝校は県立芦屋、31回大会と2連覇を果たす。
今では風物詩ともなった夏の甲子園開会式入場行進の
市立西宮女子生徒さんによるプラカード先導は31回大会に始まったそうです。
今ではその役割を夢見て進学する生徒さんもいるという夏の甲子園には無くてはならない存在。
市立西宮女子生徒さんのプラカード先導にも長い長い歴史の始まりである。
第30回大会(1948年)
~初代覇者 神戸二届かず~
1948年春の選抜大会に出場した神戸二中。
当時の3番打者 大西清が獲得した打撃賞の盾
戦後の学制改革が実施され「高校野球」元年となった1948(昭和23」年。
第30回大会は第1回優勝校が頂点へあと一歩に迫った。
旧制神戸二中から改称された神戸二高は、同年春の選抜大会に初出場した勢いそのままに決勝まで躍進した。
県芦屋と雌雄を決する大一番は激戦となった。
0-2の六回に3点を奪って逆転。
当時のメンバー、岸本能宏(86)は「ベンチでは誰が優勝盾を持つかという話も出た」と振り返る。
だが、八回の守備が乱れて3失点し、33年ぶりの覇者奪回は幻に終わった。
神戸二高はその後、第四神戸高等女学校との統合で兵庫となり、翌年選抜には県芦屋と揃って出場。
戦後の混乱期なあがら学生野球の人気は絶大で、スタンドは大観衆が渦を巻いた。
甲子園の土を踏んだ岸本は「谷底で野球をしているようだった」と栄光の時代を思い起こす。
第31回大会(1949年)
~戦後をリードした県芦屋~
第31回大会で2連覇を果たした県芦屋
(兵庫県高校野球五十年史より)
戦後の兵庫高校野球をリードした県芦屋。
1945(昭和20)年創部の新興校は、第31回大会(同49年)で2年連続3度目の頂点に立った。
3度の優勝すべてでエースを担ったのが、小柄ながら巧みな投球術を誇った有本義明。
49年春の選抜大会で準優勝に導き、夏の兵庫大会決勝でも県尼崎工を9-0で完封した。
有本は慶大で内野手として活躍した後、スポーツ記者として長く野球に携わった。
93年から3年間は、プロ野球経験なしでダイエー(現ソフトバンク)の2軍監督に就くという
異色の経歴でも知られている。
県芦屋が出場した第31回の全国大会から、開会式の入場行進で
市西宮の女子生徒によるプラカード先導が始まった。
発案した市西宮教論の岸 仁は県芦屋の初代野球部長。
転任後も甲子園と関わり続けるためのアイデアだった、との逸話が残る。
神戸新聞 山本 哲志氏
兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)
兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
第15回大会(1929年)
兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
第22回大会(1936年)
兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)
兵庫球児100年のあしあと 10
第24回大会(1938年)
兵庫球児100年のあしあと 11
第25回大会(1939年)
兵庫球児100年のあしあと 12
第26回大会(1940年)
兵庫球児100年のあしあと 13
第27回大会(1941年)
兵庫球児100年のあしあと 14
第28回大会(1946年)
第29回大会(1947年)
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兵庫球児100年のあしあと 15
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