「世紀の剛腕投手」と称された明石中の楠本保(楠本保彦さん提供)
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 7に登場するのは、戦火に散った二人の大投手。
戦争によって奪われた偉大な野球人を想うと胸が熱くなる。
史上最長記録となった延長二十五回の戦い・・・
想像がつかない長い長い戦い、すごい対戦だったんだろうなぁ。
時を超えタイブレーク制度が導入された今、もう観ることはできない記録に残る一戦。
亡き先人球児たちが今を観たら何を想うのかな。
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~
第1回大会から神戸、阪神間のチームを中心に回っていた兵庫の中等学校野球。
礎を築いて強豪に割って入ったのが、1927(昭和2)年
初出場の新鋭、明石中(現明石)だ。
30年から39年までの10年間で7度の決勝進出 うち優勝は2度。
「明中時代」が到来した。
初優勝は32年の第18回大会。
「世紀の剛腕投手」と称された楠本 保を擁し、決勝で甲陽中(現甲陽)を3-0で完封した。
三振の山を築く楠本の投球を、当時の神戸新聞は
「電光の如(ごと)き速球」と評した。
楠本は全国大会でも1回戦で北海道・北海中を相手に15三振を奪って無安打無得点試合を達成。
2回戦の広島・大正中戦は、後にミスタータイガースと呼ばれた元阪神の藤村富美男に1-0で投げ勝った。
準決勝で愛媛・松山商に敗れたが、4試合で64奪三振の快投を演じた。
甲子園で死闘 「延長二十五回」
翌33年春の選抜大会で準優勝した明石中は、第19回大会も剛腕・楠本に加え、
1学年下に左腕中田武雄が控える盤石の投手力で2連覇。
堂々の優勝候補として乗り込んだ甲子園で、今も語り継がれる伝説の「延長二十五回」を生む。
準決勝で大会2連覇の愛知・中京商と激突した。
明石中は体調を崩していた楠本を右翼に置いて中田が先発。
中京商のエース吉田正男との息詰まる投手戦は延長に入っても膠着(こうちゃく)した。
均衡は破れず、急きょ継ぎ足されたスコアボードに「0」が並んだ。
日没が迫った延長二十五回裏、中京商が内野ゴロで1点を奪ってついに決着。
4時間55分の死闘の末、明石中は涙をのんだ。
延長戦は1958年に十八回打ち切り再試合の規定が設けられた。
2000年に十五回に短縮され、今年からはタイブレーク制度を導入。
早期決着が進む中、明石中の延長二十五回は不滅の最長試合として大会史に刻まれ続ける。
第20回大会決勝、延長20回に及んだ明石中ー神戸一中のスコアボード
(神戸一中・神戸高校野球部九十年史より)
慶応大に進んだ楠本が抜けた第20回大会(34年)も、明石中は兵庫大会を順当に勝ち進んだが、
決勝で神戸一中(現神戸)に延長二十回の末に1-2で敗れた。
前年の延長二十五回に続いて完投した中田は「延長に泣く投手」と呼ばれた。
慶応大でも「明中コンビ」として活躍した楠本と中田は43年、ともに戦火に散った。
中田が太平洋上で米軍の爆撃機に沈んだ翌日、楠本は中国戦線で戦死した。
出征後に生まれた楠本の長男保彦さん(76)=埼玉県=は
「一度も会えなかったから、おやじはいつまでたっても理想の人」と話す。
戦後70年の2015年夏、保彦さんは前年に亡くなった母美代子さんと父の写真を携え、
十数年ぶりに甲子園球場を訪れた。
熱気渦巻く満員のスタンドに身を置いた保彦さんは、感慨に浸ったという。
「延長二十五回の試合もすごい雰囲気だったんだろうなあ。
自分にとってもいい記念になったし、両親も喜んでくれたと思う」
神戸新聞 山本哲志氏
保彦さん・・・
偉大な父から一文字受け継がれたお名前、お母様の想いが込められているのだと感じますね。
大投手は、甲子園の空から今の球児の活躍に目を細められてご覧になったことでしょう。
兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~
兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
~第2~4回 関学中3連覇~
~第5回 神戸一中 初の全国制覇~
兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
~第一神港商 未倒の4連覇~
兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~
兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~
兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV