育英商を強豪に押し上げた佐藤平七(兵庫県高校野球五十年史より)
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 8では、現育英野球部の礎えとなった21回の大会初優勝、22回大会の連覇。
時代々で生まれる絶対的エースの誕生に兵庫の高校野球が湧いた熱い光景が目に浮かぶ。
この時代に、現代で言う「野球留学」選手が居たことが驚きだった。
第21回大会で初めて兵庫を制し、続く全国大会で準優勝に輝いた育英商ナイン
(育英商・育英高校硬式野球部85年史より)
第21回大会(1935年)
~育英商、名門の道~
1935(昭和10)年の第21回大会は育英商(現育英)が悲願の初優勝を成し遂げた。
後に全国制覇を果たし、数々のスター選手を生む同校が名門への道を切り開いた。
大正期の16年に正式に創部し、県大会は翌17年の第3回が初出場。
夏の初勝利まで7年を要するなど、草創期は初戦敗退が続いたが、
第16回で8強入りを果たし、急速に存在感を高めた。
第17、19回で決勝に進出して県の頂点まであと一歩に迫り、35年には選抜大会に初出場。
そして同年の第21回大会決勝で当時、隆盛を誇っていた明石中(現明石)を下して初めて兵庫を制した。
その後の全国大会では勢いに乗って準優勝。
同校硬式野球部85年史には「甲子園初出場準優勝以降、入部希望の新入生は激増」と記され、
現在に至る伝統の土台が築かれた。
第22回大会(1936年)~育英商V2、全国区に
前年、創部初の栄冠に輝いた育英商(現育英)。
1936(昭和11)年の第22回大会も決勝で明石中(現明石)と顔を合わせた。
再び7-1で退けて2連覇を果たし、時代の転換を印象づけた。
前年春から4季連続出場となった甲子園大会も準決勝まで勝ち進み、全国区に駆け上がった。
躍進の原動力はエース佐藤平七。
同校硬式野球部85年史によれば、佐藤は北海道・函館出身で、当時では珍しい「野球留学」だった。
育英商のOBが北海道を旅行した際に目を付け、当時の柏原庄次監督が函館に出向いて家族を説得。
佐藤を自宅に預かり、育て上げたという。
伸びやかな横手投げだった佐藤は正確無比なコントロールが武器だった。
卒業後はプロ野球の毎日(現ロッテ)や阪急(現オリックス)でプレーした。
神戸新聞 松本大輔氏
兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~
兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
~第2~4回 関学中3連覇~
~第5回 神戸一中 初の全国制覇~
兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
~第一神港商 未倒の4連覇~
兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~
兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~
兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV
兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~
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兵庫球児100年のあしあと 8
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