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兵庫球児100年のあしあと 2

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 2では、第2回~9回大会(1916~1923年)の兵庫球児のあしあと。

第2回から4回に3連覇を果たした関学中、第5回大会では神戸一中が初の全国制覇をし、

兵庫が初めて優勝旗を手にした記念すべき大会となった。

第6回では関学中が悲願の全国初優勝をし歴史に残る投手が誕生するが、

時の厳しさに球児たちがのみ込まれていった時代の背景に胸が熱くなる。

今春の県大会、昨日1回戦で初戦勝利をした洲本が兵庫の球史に初登場した第7回大会、

小さな大投手を生んだ第8回、甲子園球場誕生のきっかけとなった甲陽中が全国制覇を果たした第9回、

1回大会から9年の歴史の中にある兵庫球児たちの活躍の凄さや、

兵庫の高校野球の奥深さを知ることができる内容でした。

兵庫球児軌跡のはじまり第1回大会はこちら・・・

兵庫球児100年のあしあと 1 ~激闘の譜 第100回へつなぐ~ 第1回大会(1915年)


第2回~9回大会(1916~1923年)

土壇場の逆転劇で第1回覇者の誉れを神戸二中に奪われた関学中だが、第2回大会(1916年)に

準決勝で神戸二中に雪辱し、決勝では神戸商(現県神戸商)に16-2で大勝、初の栄冠に輝いた。

全国大会は初戦で香川商に1-2で惜負した。


黄金期を迎えた関学中。

第3回大会(17年)決勝で御影師範学校を14-4で、

第4回大会(18年)は再び神戸商に3-2で競り勝ち、3連覇を果たした。

ところが、鳴尾球場に会場を移した全国大会では、悲運が待ち受けていた。

第3回は広島商や京都一中などを連破して決勝まで勝ち進んだものの、

当時あった敗者復活制で勝ち上がった愛知一中に惜負。

それも1-0の六回に降雨ノーゲームとなり、翌日は延長十四回の末に0-1で敗れた。

更に第4回大会は米騒動で全国大会自体が中止という憂き目に遭った。



第5回大会(19年)を制したのは神戸一中(現神戸)

1896(明治29)年創部の屈指の伝統校は決勝で神戸商を退けて初優勝。

全国大会でも1回戦で和歌山中を破ると勢いに乗り、決勝で長野師範を破って地元兵庫に初の優勝旗をもたらした。

「神戸一中、神戸高校野球部九十年史」には、優勝したにもかかわらず、来田健朗主将が

「われわれは見せ物ではない」

と閉会式での場内一周を拒否した逸話が残る。



第6回大会(20年)は関学中が2年ぶりの優勝。

右アンダースローの沢 昇は病を押しての4連投ながら、決勝でも8-2と神港商を圧倒した。

沢は全国大会でも炎天下のマウンドに上がり、決勝で東京の慶応普通部に17-0で大勝して念願の日本一を達成した。

歴史に名を刻んだ沢だが、22年1月、台湾で早世した。


洲本中(現洲本)や青年会商(廃校)などの初参加も加えた第7回(21年)で14校の頂点に立ったのは神戸一中。

決勝で甲陽中(現甲陽)に2-1で競り勝って制覇を奪回したが、全国では和歌山中に0-20の大敗を喫した。

和歌山中は決勝を含む全4試合で75点という無類の猛打で初優勝を飾っている。


「小さな大投手」が躍動したのが第8回大会(22)年だ。

神戸商の浜崎真二は身長150センチ台ながらエースとして君臨。

決勝は1-0で神港商(後の第一神港商)との投手戦を制すると、全国でも準優勝した。

浜崎は後に慶応大やプロ野球阪急(現オリックス)でプレーし、野球殿堂入りも果たしている。


第9回大会(23年)は「逆転の甲陽中」が日本一に輝いた。

姫路中(現姫路西)との県大会決勝で、0-3から四回の4得点でひっくり返して初の頂点に立つと、

全国大会も5試合中4試合が逆転劇。

準決勝では観衆が場内になだれ込んで試合が一時中断。

この混乱が高校野球の聖地「甲子園球場」が生まれるきっかけともなった。


神戸新聞 山本哲志氏


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