白球回想 夏の兵庫大会史
多くの兵庫球児によって繋がれてきた兵庫の高校野球100年の歩みが新聞に連載されていて、
記録と記憶・・・とは凄いなぁと思いながら大変興味深く熟読しています。
紙面には当時の写真も掲載されていて、知らない時代の兵庫球児たちに出逢うことができることが
不思議な気持ちにもなり、神秘的な気持ちにもなり、感動でもあります。
私自身も兵庫球児の写真を10年近く撮り続け、この甲子園きっぷを書いていますが、
カメラの魅力、不思議さ、記録と記憶を残すことの大事さを凄く感じながら観させていただいている中で、
この連載記事に出会い、より一層 「残す」ことの意味や大切さを改めて考えました。
今を知らないこの時代の兵庫球児たち。
近年ではコリジョンルールや申告敬遠、高校野球でも今春から全国統一導入されたタイブレークなど、
時代と共に変わってきたルールや近代的な野球を今を知らない兵庫球児たちが今を観たら
本当驚くだろうなぁ~なんて想いながらも、遠い遠い時代に残された一枚の写真の記憶や記録から、
変わらないもの・・・「頑張り」も感じます。
そして、目指す場所は昔も今も変わらない球児たちの聖地だということ。
今を知らない兵庫球児たちのあしあとを「今の兵庫球児」にも、
繋がれてきた自分たちの兵庫の高校野球の軌跡を知ってもらえたらなぁと、
また兵庫以外の方々にも兵庫球児たちの100年を知っていただく機会になればと思い残したいと思います。
現在、第18回~25回大会まで連載は進んでいますが気長に残したいと思います。
~激闘の譜 第100回へつなぐ~ 第1回大会(1915年)
1915年(大正4)年、全国中等学校優勝野球大会として始まった全国高校野球選手権大会は
今夏、第100回の節目を迎える。
出場10校だった第1回大会から兵庫は全国で唯一、県単独で地方大会を開催。
昨年までの全大会に代表校を送り出し、今夏の全国大会で100回連続出場を果たす都道府県は、
兵庫と東京しかない。
全国大会とともに誕生し、単独の地方大会では最古の歴史を誇る夏の兵庫大会。
大正期から連綿と続く大会は、兵庫代表の座を懸け、数々の激闘が繰り広げられてきた。
名門、強豪を生み、後にプロで活躍する名選手が巣立った。
7月の第100回記念兵庫大会を前に、103年前の第1回から昨年の第99回大会までをたどる。
第1回大会(1915年)
「二中熱狂す」
1915(大正4)年8月。
記念すべき第1回兵庫県野球大会は7校が参加し、神戸・灘にあった関学中の校庭(原田の森)で行われた。
神戸二中(現兵庫)と関学中(現関学)の決勝は神戸二中が0-2の九回裏に3点を奪い、劇的なサヨナラ勝ちを収めた。
「兵庫県高校野球五十年史」では、当時、神戸二中の二塁手だった岸本胤夫が
「あのころの関学中の強さは群を抜いており、正直にいって勝てるとは思っていなかった」
と回想している。
優勝候補だった神戸一中(現神戸)と関学中が準決勝でぶつかったことも神戸二中には幸いした。
第1回全国中等学校優勝野球大会に兵庫代表として出場した神戸二中は、大阪の豊中球場で
早稲田実と初戦の2回戦で対戦し、0-2で敗れた。
神戸二中および兵庫は第1回から昨年の第99回までの兵庫大会に欠かさず参加しているが、優勝は第1回のみ。
同じく皆勤出場の伝統校では、その後に全国制覇を果たした神戸一中と関学中の陰に隠れがちだが、
第一歩を記した足跡は1世紀を過ぎた今も色あせない。
創設100年の節目を迎えた2015年の第97回全国高校野球選手権の開会式では、
第1回大会出場10校の現役部員が復刻ユニホームを着用して行進。
同12月には甲子園球場で第1回の代表校によるOB戦も行なわれ、遠い遠い先輩の勇姿に思いをはせた。
「甲子園に対する思い入れがまた強くなった」と語るのは、
野球部OB会「武陽野球倶楽部」の武蔵健児会長(69)だ。
春も4度の全国大会出場を経験しているが、武蔵会長らが出場した1966(昭和41)年を最後に半世紀以上、遠ざかっている。
「いつの日か、甲子園に再び校歌が流れる日が来てほしい」
神戸新聞 山本哲志氏
節目の100回記念兵庫大会で、どのチームの校歌が流れるのか・・・
更に楽しみになる第1回兵庫大会 兵庫球児たちのあしあとでした。
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兵庫球児100年のあしあと 1
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