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兵庫球児100年のあしあと 18

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 18

甲子園だけが高校野球ではない・・・

36回大会では甲子園へ辿りつけなかった大投手の功績と栄光。

37回大会では、現在の六甲アイランドの前身、

市立神戸商業が春のリベンジマッチを制して初優勝した。

父なる大監督 釜内氏と歩んだ兄弟共の甲子園。

かけがえのない一生の思い出が紹介されている。

六甲アイランドは市立神戸商業と赤塚山(懐かしい校名だ・・・)が統合して開校。

37回大会以降、長きに渡り甲子園へ帰っていない。

100回大会には前身2校の先輩の分も、六甲アイランドとして初Vを!


第36回大会(1954年)

~住友工・村山実が快投~


母校住友工高の跡地に接地されている村山実の銅像


滝川が2度目の優勝を飾った1954(昭和29」年の第36回大会は、

後にプロ野球史に名を刻む大投手が足跡を残している。

尼崎・住友工のエース村山実。

関大を経て大阪(現阪神)入りし、通算222勝をマーク。

「ミスタータイガース」と称されたレジェンドだ。


村山が入学するまで住友工は夏の大会1勝が最高戦績だったが、

2年生夏の4回戦まで導くと、3年生春は近畿大会で4強入り。

夏の第36回大会は2回戦の市西宮戦で2安打完封、

4回戦の西脇戦では3安打完封。

準々決勝で明石に1-2で惜負したものの、

将来の大成を予感させる快投でチームを躍進させた。


98年の死去後、住友工の後身、尼崎産の敷地内に銅像が設置された。

2013年、統合に伴う同校閉校後も銅像は跡地の

県立尼崎総合医療センター内に立ち、功績を伝え続けている。


神戸新聞 松本 大輔氏


第37回大会(1955年)

~釜内氏率い市神戸商初V~


第37回大会で初優勝した市神戸商ナイン
(兵庫県高校野球五十年史より)


戦後10年の1955(昭和30)年。

第37回大会は、後にプロ野球で完全試合を達成する森滝義巳を擁した

兵庫などの強豪を押しのけ、市神戸商が初優勝をさらった。

決勝は、春の県大会で1-16と大敗した明石に4-2で雪辱。


当時の4番打者、津田朝良(80)は

「OBにめちゃくちゃ絞られたから、気合は入っていた」と回想する。

監督の釜内和夫は2年後の57年から40年間、兵庫県高野連理事を努め、

兵庫の高校野球発展に尽力した人物だ。

津田にとって釜内は「家族も同然の恩人」としのぶ。

戦死した兄は北神商のエースとして釜内監督の下、39年の選抜大会に出場。

「私も就職の世話や仲人までしてもらった。豪快な先生で、本当にいいおやじだっだ」


市神商は赤塚山と統合し、98年に六甲アイランドが開校。

甲子園出場は55年が春夏通じて唯一である。


神戸新聞 山本 哲志氏


兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)

兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)

兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)

兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
第15回大会(1929年)

兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)

兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)

兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)

兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
第22回大会(1936年)

兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)

兵庫球児100年のあしあと 10
第24回大会(1938年)

兵庫球児100年のあしあと 11
第25回大会(1939年)

兵庫球児100年のあしあと 12
第26回大会(1940年)


兵庫球児100年のあしあと 13
第27回大会(1941年)


兵庫球児100年のあしあと 14
第28回大会(1946年)
第29回大会(1947年)


兵庫球児100年のあしあと 15
第30回大会(1948年)
第31回大会(1949年)


兵庫球児100年のあしあと 16
第32回大会(1950年)


兵庫球児100年のあしあと 17
第33~35回大会(1951~53年)


兵庫球児100年のあしあと 19

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 19

38回大会は県立尼崎の初優勝、39回は22年ぶりに育英が悲願の優勝飾った。

この時の選手の一人(江渡氏77歳)が現在、県立尼崎のコーチとして後輩たちをご指導されているそう。

100回目の兵庫の夏、大先輩と目指す甲子園。

何だか素敵だ。


第38回大会(1956年)

~県尼崎、全盛期の初栄光~


第38回大会で県尼崎を初の優勝に導いた今津光男投手
(兵庫県高校野球五十年史より)


1950年代に春4度、夏1度の甲子園出場を誇る県尼崎。

兵庫県大会を唯一制したのは今津光男(元中日、広島)がエースとして君臨した38回大会(56年)だ。


3度の完封に、準決勝は育英、決勝は洲本相手にそれぞれ1失点完投。

「背丈はなかったが、とにかく足腰が強かった。

運動場の端から端までうさぎ跳び。嫌々付き合わされました」。

今津の2学年下で、卒業後は近鉄でプレーした江渡辰郎(77)は苦笑交じりに振り返る。

プロ入りへの決意が強く、自分にも他人にも厳しかったという。


甲子園には59年の春以降遠ざかり、近年の尼崎勢では市尼崎を追う立場になった。

全盛期を知る江渡はアマチュア資格を取得。

昨春から母校のコーチを努め、孫の世代になった後輩たちを指導する。

「一歩一歩、前進です」と江渡。

往年の「県尼」復活を願う。


第39回大会(1957年)

~育英、22年ぶり返り咲き~


第39回兵庫大会を制し、戦後初めて夏の甲子園の土を踏む育英ナイン
(育英商・育英高校硬式野球部85年史より)


育英商時代の1935(昭和10)年夏に全国準優勝した名門が、

57年の第39回大会で戦後初の優勝を遂げた。

51年から3年続けて決勝で県芦屋に苦杯。

雌伏の時を経て22年ぶりに返り咲いた。


OBの源田忠一・青年監督の下、永井進(元阪急)ー戸梶正夫(元阪神など)の

バッテリーを擁し、全6試合でわずか1失点。

宿敵・県芦屋にも準々決勝で完封勝ちした。


ただ、春夏連続で出場した甲子園大会はともに初戦で敗れた。

夏は広島商に2度リードしながら延長十回の激闘の末、4-5でサヨナラ負け。

広島商は波に乗って全国優勝を果たした。

二塁手の木下正治は、同校野球部85年史(99年発行)に

「今もって広商に負けたと思えぬ」と記す。


捕手の戸梶は阪神に8年間在籍。

当時活躍した外国人投手、ジーン・バッキーとバッテリーを組み、存在感を光らせた。


神戸新聞 山本 哲志氏


兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)

兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)

兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)

兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
第15回大会(1929年)

兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)

兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)

兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)

兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
第22回大会(1936年)

兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)

兵庫球児100年のあしあと 10
第24回大会(1938年)

兵庫球児100年のあしあと 11
第25回大会(1939年)

兵庫球児100年のあしあと 12
第26回大会(1940年)


兵庫球児100年のあしあと 13
第27回大会(1941年)


兵庫球児100年のあしあと 14
第28回大会(1946年)
第29回大会(1947年)


兵庫球児100年のあしあと 15
第30回大会(1948年)
第31回大会(1949年)


兵庫球児100年のあしあと 16
第32回大会(1950年)


兵庫球児100年のあしあと 17
第33~35回大会(1951~53年)


兵庫球児100年のあしあと 18
第36回大会(1954年)
第37回大会(1955年)

兵庫球児100年のあしあと 20

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 20

全国の参加校73校、全国大会出場校10校だった第1回大会

40回大会には全国の参加校も1807校となり、

選手権大会は47都道府県の優勝校47校が出場するようになった記念すべき大会。


兵庫県では新風を吹き込んだ姫路南の初優勝。

準決勝 私神港(現神港学園)との一戦が紹介されているが、

時を超え2014年夏 両校は4回戦で対戦しており、私の中で色濃く残る好勝負。

勝って涙、敗れて涙・・・高校野球の素晴らしさを感じた思い出深い一戦だった。

2014 夏のmemory♪第96回全国高校野球選手権兵庫県大会 4回戦 神港学園vs姫路南 観戦記

この40回大会優勝から甲子園へ帰っていない姫路南ですが、

近年では86、87回選抜21世紀枠兵庫県推薦校に2年連続で選ばれるなど、

新風ではなく常風に強さを魅せてくれているチームです。

甲子園へあと一歩。

今夏60年ぶりの甲子園へ!100回目の兵庫の夏頂点を目指す姫路南です。


第40回大会(1958年)

~姫路南、西播勢初の頂点~


優勝旗を授与される姫路南の選手
(兵庫県高校野球五十年史より)

1958(昭和33)年の第40回大会は姫路南が初優勝。

神戸・阪神勢に明石が対抗してきた兵庫の勢力図に、姫路市西部の新鋭が風穴をあけた。

6試合中4試合が1点差ゲーム。

4回戦の兵庫戦は延長十七回、準決勝の私神港(現神港学園)戦は延長十六回を戦い抜いた。

4番打者だった津田昌吾(77)は「何度あかんと思ったか。野球の神様がついとったんかな」

と激闘の日々をしみじみと思い返す。


西播勢初の代表校誕生に地元は沸き立ち、翌59年の姫路球場建設への足がかりにもなったが、

当時のナインは「全国大会への不安で下を向いて宿舎へ帰った」と津田。

それでも1県1校の47代表が初めて揃った記念大会で多治見工(岐阜)に2-1、

清水東(静岡)に4-3としぶとく2勝を挙げた。

その後は、春夏通じて甲子園出場を果たせていない。


神戸新聞 山本 哲志氏


兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)

兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)

兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)

兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
第15回大会(1929年)

兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)

兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)

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第18回~20回大会(1932~34年)

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第21回大会(1935年)
第22回大会(1936年)

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第23回大会(1937年)

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第24回大会(1938年)

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第25回大会(1939年)

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第26回大会(1940年)


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第27回大会(1941年)


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第28回大会(1946年)
第29回大会(1947年)


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第30回大会(1948年)
第31回大会(1949年)


兵庫球児100年のあしあと 16
第32回大会(1950年)


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第33~35回大会(1951~53年)


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第36回大会(1954年)
第37回大会(1955年)


兵庫球児100年のあしあと 19
第38回大会(1956年)
第39回大会(1957年)

兵庫球児100年のあしあと 1~20 第1回~第40回大会

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兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)

兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)

兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)

兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
第15回大会(1929年)

兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)

兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)

兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)

兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
第22回大会(1936年)

兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)

兵庫球児100年のあしあと 10
第24回大会(1938年)

兵庫球児100年のあしあと 11
第25回大会(1939年)

兵庫球児100年のあしあと 12
第26回大会(1940年)


兵庫球児100年のあしあと 13
第27回大会(1941年)


兵庫球児100年のあしあと 14
第28回大会(1946年)
第29回大会(1947年)


兵庫球児100年のあしあと 15
第30回大会(1948年)
第31回大会(1949年)


兵庫球児100年のあしあと 16
第32回大会(1950年)


兵庫球児100年のあしあと 17
第33~35回大会(1951~53年)


兵庫球児100年のあしあと 18
第36回大会(1954年)
第37回大会(1955年)


兵庫球児100年のあしあと 19
第38回大会(1956年)
第39回大会(1957年)


兵庫球児100年のあしあと 20
第40回大会(1958年)

兵庫球児100年のあしあと 21

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 21

第41回大会の優勝校 滝川高校野球部が創部100周年を記念して、

昨日滝川第二のグラウンドに於いて、この当時宿敵とされていた育英との交流戦が行われたそうです。

滝川はこの後直近の44、46年にも優勝を果たしていますが、46年の決勝の相手も育英。

42、47年と、滝川と決勝の舞台に上がった翌年にも決勝へ進出する活躍をしている。

滝川100周年の記念の年、100回目の兵庫の夏に両校が決勝で再び顔を合わせることになれば素敵ですね。


第42回は、今で言うデーター野球の始まりを生んだ明石が優勝。

当時としては革命的な高校野球の始まりだ。


第41回大会(1959年)

~滝川・吉本 名将への一歩


就任間もないころの滝川・吉本宗泰監督(左)
瀧川野球部史より


兵庫の高校野球を長くけん引した名将が歴戦の一歩を記した。

1959(昭和34)年の第41回大会は吉本宗泰監督が率いた滝川が優勝。

母校に戻り、就任3年目で監督として初の栄冠に輝いた。

専大の監督を経て57年に就任した。

当時31歳。


若くして名門の指揮を託されたが、2年目の58年夏の兵庫大会準々決勝では

優勝した姫路南と激闘を演じて存在を誇示。

59年は県芦屋を準々決勝で破り、決勝は同じ神戸・板宿地区のライバル、育英を2-0で退けた。


華美な言動を慎み、学生野球の本分をわきまえた。

同校野球部史には「伝統ある滝川野球の継承と発展を考慮したとき、まさに適任」

と就任の経緯がつづられている。


滝川、滝川第二で32年間監督を努め、甲子園出場は春8回、夏5回。

計13回の出場は県内の歴代監督2位の記録である。


第42回大会(1960年)

~明石、土井正三の育英下す~


第42回大会で4度目の優勝を果たした明石ナイン
(兵庫県高校野球五十年史より)


1960(昭和35)年の第42回大会は伝統校、明石が4度目の栄冠に輝いた。

決勝の相手は前年準優勝の育英。

後に巨人のV9に貢献する土井正三が要を担った。

戦力的には劣っていた明石だったが、1-0で競り勝つ。

決勝の1点は名手・土井の悪送球で許した走者だった。


監督の赤松晃は旧制明石中時代の47年、選手として戦後初の選抜大会に出場。

チームメイトは元阪神の大津淳、神戸弘陵などで監督を務めた高木太三朗らで

「延長二十五回」のメンバー、横内明の薫陶を受けた世代だ。


早大出身で戦術家だった赤松監督。

当時の高校野球では浸透していなかった対戦校の事前視察を取り入れ、相手の特徴を捉えたという。

優勝時1年生だった木下裕一(73)=元明石部長=は

「試合前の分析は今でこそ当たり前だが、当時としては新しい野球だった」と述懐する。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20

第1回~第40回大会(1915~1958年)

2018年 春季高校野球 近畿大会対戦組み合わせ

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26日開幕の春季近畿大会 楽しみな組み合わせとなりました。

出場8校の内、大阪桐蔭(大阪)をはじめ、智辯和歌山(和歌山)、智辯学園(奈良)、乙訓(京都)と

選抜出場4校が春季府県大会を勝ち抜き近畿大会へ進出してきました。

滋賀は秋の準優勝校、秋季近畿大会では1回戦 奈良の法隆寺国際に惜しくも敗れ選抜出場を逃した比叡山。

春季滋賀県大会決勝は、秋の滋賀県大会決勝と同カードとなり近江にリベンジを果たし明石へやって来ます。

そして、兵庫は明石商業、滝川第二、市立尼崎の3校。

1回戦 明石商業は、選抜2連覇を果たした大阪桐蔭と、

市立尼崎は智辯学園、滝川第二は乙訓と、選抜出場校との対戦が決まり、

夏を目前に力を試す絶好の機会がやってきましたね。

注目の大阪桐蔭と開催地元の明石商業が開幕戦とあって、

藤浪投手を擁した大阪桐蔭が出場した2012年(明石トーカロ球場開催)以上の

観客になるんじゃないかなぁ~と・・・。

兵庫チームは今春選抜悔しい思いをした分も、近畿の頂点を目指し頑張って欲しいなと思います


兵庫球児100年のあしあと 22

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 22


43回大会は、今では兵庫の強豪校として追われるチームの報徳学園が初優勝。

創部は1932年(昭和7)、18回大会 明石中が初優勝を飾った年。

今では報徳学園と言えば「逆転の報徳」という代名詞は有名になっているが、

創部から29年の時を経て掴んだ甲子園、この夏が逆転の報徳の原点となった。

この43回大会が報徳学園の甲子園初出場だということに今の強さを知る自分には少し驚きだった。

こうして一つひとつチームの歴史を築いて今があることが感慨深い。


44回は、4度目となる滝川が優勝。

ここまでは優勝したチームを中心に書かれていたが、この大会に関しては

準優勝校の柏原が取り上げられている。

勝利した裏には同じだけ頑張った敗者が居る。

それを残す・・・

自分がこのブログを書いている中で一番心に置いている部分であるので何だかこの記事は嬉しかった。

この当時の選手たちは今もこの時の野球話を肴に華を咲かせ語り合っておられるそう。

素敵な笑顔が浮かぶなぁ~。


第43回大会(1961年)

~誕生「逆転の報徳」~


第43回全国選手権で逆転勝ちを決める報徳。
初の甲子園で一躍名をはせた

延長十一回裏に6点差を追い付き、十二回裏にサヨナラ勝ち。

1961(昭和36)年 夏の甲子園1回戦、岡山・倉敷工相手に奇跡的な試合を演じ、

今に受け継がれる「逆転の報徳」は誕生した。


創部は昭和初期の32年。

大逆転を遂げた61年の第43回が甲子園初出場だった。

当時の捕手、高橋尤二(74)は回想する。

「育英、滝川が強くて甲子園なんて頭にもなかった」


兵庫大会から神懸かっていた。

準決勝の兵庫工戦は五回表を終えて0-6。

大敗ムードが漂う中、五回裏に猛追。

一挙6点を奪って追い付き、七回に勝ち越す逆転劇を起こした。

決勝は県尼崎に2-0で完勝し、学校創立50年で頂点にたどり着いた。


2014年まで野球部OB会長を務めた高橋は目を細める。

「報徳の原点と言ってもらえる。ありがたいことです」


第44回大会(1962年)

~柏原旋風 輝く準優勝~


第44回大会で準優勝に輝いた柏原ナイン
(横尾進氏提供)

ダークホースの快進撃は「柏原旋風」と呼ばれた。

1962(昭和37)年の第44回大会で初の決勝に勝ち進んだ柏原。

滝川に完敗を喫し、準優勝に終わったが、丹波勢で唯一、県北部の決勝進出校として名を刻む。


好投手の井尻英毅を擁し、61年春の選抜大会に初出場したが、

主力が抜けた62年は今井雅之、赤井昭一ら3年生はわずか6人。

秋春の県大会は1回戦負けで、夏はノーマークの存在だった。

ところが3回戦で春の準優勝校、尼崎北に競り勝つと、

準々決勝、準決勝もエース船越昭紀が完封。

低い前評判を覆した。


選抜出場時からレギュラーだった横尾進(74)は

「甲子園に出た次の年。『よくつないでくれた』とわが事のように喜んでくれた先輩たちの姿が忘れられない」。

半世紀が過ぎた今も当時のメンバーは学年を超えて集まり、昔話に花を咲かせるという。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)

兵庫球児100年のあしあと 23

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 23


45回大会は市立西宮が姫路南との接戦を制し、春夏とも初出場の連続甲子園へ!

夏の甲子園開会式でプラカード先導をする同校の女子生徒と共に甲子園で念願の行進することが実現した。

この翌年の選抜へ2年連続出場後、甲子園へ帰っていないが

昨年、中日から指名を受けプロ野球へ進んだ山本拓実投手を擁し8強と甲子園まであと一歩。

山本投手は高校1年生から投手へ転向した選手だそうで、

活躍光り、あの大阪桐蔭から指名を受け行った練習試合で自信をつけ、

プロ進出の意欲を更に沸かせ夢を実現させたそう。

今夏、55年ぶりの夏の甲子園を目指す後輩たちの大きな力となっていることでしょうね。

100回目の夏甲子園で、再び市立西宮の女子生徒が掲げるプラカードを先導に

市立西宮ナインの行進が観られたら素敵だな。


46回大会は、再び育英を破り滝川が優勝。

その立役者となったエース芝池投手は、兵庫大会では48回3/2を失点ゼロ@@!

兵庫大会から甲子園2回戦で敗れるまでの59イニングで失点ゼロ@@!

そんな凄すぎる兵庫球児を未だ観たことが無い・・・。

痺れるストレート観てみたかったなぁ~。

71歳になられた今も、未来の高校球児にご指導をされておられるそうです。


第45回大会(1963年)

~市西宮、有言実行の初V~


第45回全国選手権の開会式で行進する市西宮ナイン


1963(昭和38)年の第45回大会は、決勝で市西宮が6-5で姫路南を下して初優勝。

同年春の選抜に続く甲子園の開会式では、例年プラカード先導を努める女子生徒との行進が実現した。

下級生主体で、6人は学分中(西宮市)時代に近畿大会優勝。

「みんなで甲子園に」とそろって進学した地元公立校で有言実行した。


下手投げエースだった友光克彦(71)は

「サインは中学のものを使っていたし、チームの完成度は高かった」と語る。


夏前に大阪の強豪、浪商(現大体大浪商)との練習試合で

高田繁(元巨人)に投げ勝った経験も自信になったという。

友光らは3季連続の甲子園出場となった64年春の選抜ベスト8に進出。

以降は聖地から遠ざかるが、昨夏の第99回大会では、

エース山本拓実(現中日)を擁して8強入し、存在感を示した。


第46回大会(1964年)

~滝川・芝池、48回2/3無失点~


下手投げ右腕として滝川を引っ張った芝池博明投手
(瀧川野球部史より)


兵庫大会6試合、48回3/2を投げて失点ゼロ。

1964(昭和39)年の第46回大会は滝川のエース、芝池博明の独壇場だった。


勝負の準々決勝以降は3試合連続完封。

2回戦で敗れた甲子園大会まで、59回連続無失点の記録を残した。

下手投げからの直球が伸び、制球も抜群だった。

3回戦の東洋大姫路戦は無安打、準々決勝の鳴尾戦は延長十二回を2安打。

「打たれたヒットは6試合で13本。1点を取ってくれれば勝てると思っていた」

芝池はそう回想する。


真骨頂は1学年下の育英・鈴木啓示(元近鉄)と投げ合った決勝。

自らヒットで出塁して決勝のホームを踏み、1-0の完封で甲子園切符をつかんだ。


専修大では完全試合を達成し、プロ野球近鉄などで10年間プレー。

引退後は明石駅付近で居酒屋を営み、71歳の今も野球教室で子どもたちを指導する。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 24

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 24


兵庫の夏99回大会の中で3連覇という輝かしい記録を創ったチームは、

第2回~4回大会の関西学院中、第33回大会~35回大会の芦屋、

そしてこの第47回大会~49回大会の報徳学園。

この後、第54回大会~56回大会に登場する東洋大姫路の4校。

第10回~13回大会に至っては、第一神港商業が4連覇。

他に4連覇を成し遂げたチームは無い。

これからの100年に、またそんな凄いチームが現れるだろうか・・・

2連覇をすることも強さぶつかり合う難関の現在の兵庫。

だからこそ現れるかもしれないな。


「練習は嘘をつかない」

逆転の報徳ナインは「黒鬼」の名を持つ清水監督さんの下、猛練習し3連覇という偉業を成し遂げる。

甲子園の土を踏んだ時、苦しかった猛練習に耐え頑張ったことが報われる瞬間。

「黒鬼」監督と歩んだ野球道、色褪せることのない青春時代の一頁ですね。


第47~49回大会(1965~67年)

~報徳、無敵の3連覇~


報徳の監督退任後、社会人野球の神戸製鋼を指揮し、都市対抗優勝に導いた清水一夫氏。
2004年、73歳で死去した=1977年撮影


1961(昭和36)年の第43回全国選手権で大逆転劇を演じ、鮮烈な甲子園デビューを飾った報徳。

4年後の第47回大会から戦後2校目の兵庫大会3連覇を達成し、県内屈指の強豪に駆け上がっていく。


65年の第47回大会は、エース谷村智博を中心とした堅守で勝ち進む。

学生マネージャーの東照久が縁の下で支えたチームの結束力は固く、

制球のいい谷村をバックが無失策でもり立て、完封勝ちは4試合を数えた。


同年の選抜大会に出場した育英との決勝は、後の300勝投手、鈴木啓示(元近鉄)との投げ合い。

八回まで互いにゼロを並べる緊迫の投手戦は九回裏、報徳が1点をもぎ取り、劇的な勝利で甲子園をつかむ。

一方、育英の鈴木は前年決勝の滝川戦に続き、2年連続0-1で涙をのんだ。


甲子園でも2試合連続完封を演じた谷村は関学大、鐘淵化学を経てプロ入り。

阪神、阪急で通算72勝を挙げた。

同校野球部八十周年記録誌(2012年発行)の中で谷村は

「毎年200、300球の投げ込みは当たり前。

肋骨(ろっこつ)にひびが入っても投げた日もあった」

と過酷な高校時代を回想している。


「黒鬼」の猛練習、不動の名門へ


2度目の兵庫大会優勝を果たし、第47回全国選手権で入場行進する報徳ナイン


66年の第48回大会は、4回戦で再び育英をサヨナラで下すと、

決勝は淡路勢初の頂点を目指した洲本を5-2で退ける。


2年連続で出場した夏の甲子園大会では2回戦で主砲・荒武康博(元西鉄)が

満塁本塁打を打つなど、前年を上回るベスト4入りを果たした。


春の選抜出場校として臨んだ67年の第49回大会は、県内ではもはや無敵の存在だった。

準々決勝で育英に8-0、決勝も三田学園に4-0。

3年連続優勝の快挙とともに、前年夏から3季連続甲子園出場を決めた。


甲子園でも前年に続いてスタンドを沸かせる。

1回戦の埼玉・大宮戦は1点をリードされた九回2死から追い付き、さらに本盗を決めてサヨナラ勝ち。

土壇場で奇策を敢行し「逆転の報徳」の真骨頂を発揮した。


兵庫大会3連覇に導いた監督は、OBの清水一夫。

中大を経て市神港の監督として63年の選抜大会に出場した後、母校に復帰した。

猛烈な練習で知られ、ついた異名は「黒鬼」。

65年優勝時の主将、朝山彦一(74)は

「ノックは1人がエラーすれば一からやり直し。

へとへとでもボールを取りにいく姿勢をみせないと怒られた。

県内では3、4番手だったが、練習量では他に負けていない自負があった」

と思い起こす。


清水は10年間監督を努め、甲子園出場は春3回、夏4回。

基満男「元大洋など)、水沼四郎(元広島など)、松本匡史(元巨人)ら

数人にプロ選手を育て上げ、報徳の名を球界に響かせた。

72年に退任。

後に選抜大会優勝を果たす慶大出身のOB、福島敦彦にタクトを託した。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)

2018年 春季高校野球 近畿大会開幕☆彡5月26日対戦結果

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春季近畿大会が開幕し、応援に行って来ました。

大阪桐蔭と明石商業の開幕戦とあって、凄い人だろうなぁ~と

予想はしていましたが、予想を遥かに上回る驚く人・・・人・・・人。

明石トーカロ球場内の駐車場は限り少ないので、

かなり早め、8時前には到着しセーフで駐車できましたが、

すでに満車近くの車・・・車・・・車。

長年明石球場へ観戦に行っていますが、かつて無いくらい開門までの長蛇の列で、

その時間でも遅かったくらい、最後尾はどこまで並んでいるんだろ~><という状態でした。

2012年 藤浪投手が来た時でもこんなに並んでなかった記憶です。

私は前列の方に並んでいたお知り合いの杏優ちゃん(明石商業出身)がチケットを購入して下さったので、

おかげでいつも観戦する席に座らせていただくことができました。

持つべきものはお知り合い とても感謝です。

開門を待つ広場に大阪桐蔭の選手たちが現れアップを開始。

間近に見る選手たちは甲子園で観るより背丈も大きくて貫禄が凄い!

開門を待つ人みんな一斉にカメラを向けていました。

・・・私も一枚

驚いたのは、アップに西谷監督さんが付き添われておられたことと、

根尾選手の顔がビックリするくらい小さい!笑

しかしやはり王者大阪桐蔭の選手たちが持っているオーラは凄いですね。

異常・・・という表現はどうかと思いますが、今まで見たことがない空気がそこにありました。

開門前は何だか物々しい雰囲気でしたが、いざシートノックが始まると、

見慣れた明石商業の持つ空気と、聞き慣れたスタンドからの声に何故かホッとした私です。


球場では誰かお知り合いとお会いするのも楽しみのひとつです。

今日は、ご縁ある淡路島の少年野球チーム、おのころジャガーズの柏木さんが事前にお連絡下さったり

チケット購入に並んでくれた杏優ちゃんに、明石商業元高校球児の和田くんにも

お久しぶりにお会いすることができました。


そして今日一番嬉しかったこと・・・。

村野工業昨年チームの米川くん、志水くん、エース道才くんに会うことができたこと。

米川くん、志水くんは社会人になりちょっぴり大人になって・・・。

道才くんは現在神戸学院大で野球を続けており、明日は新人戦で登板するんですと。

明日滋賀県で試合があり滋賀へ向かう前に大阪桐蔭VS明石商業を観戦に来たそうです。

先日初登板した試合のことなども話してくれ、彼はやっぱり野球が大好きなんでしょう。

キラキラした表情で大学野球でも充実した野球をしていることを話してくれました。

明日、いい試合になればいいなと思います。ガンバレ~!


彼らの高校最後の夏の試合は、この場所で明石商業との対戦でした。

その際、対戦したのが、今日の大阪桐蔭戦で継投した加田投手なのです。

道才投手、志水投手で挑んだあの試合。

3人が明石商業の選手たち、加田投手を観ている後ろ姿にあの日が蘇り・・・。

彼らはどんな気持ちで今を観ているのかなと、感慨深い彼らの後ろ姿でした。

帰り際、挨拶に来てくれた彼らに「高校野球したくなったんちがう~?」って尋ねると、

「やりたいです!」と志水くんが即答していました。

あれだけしんどい高校野球だったのにねぇ~。

高校野球を離れてみて違う世界を進む彼らだからこそ、

目の前で高校野球をする選手を観ると懐かしさ・・・というより

あのしんどかった日々って、同じ想いの仲間と毎日汗まみれになって、

悩んだり、泣いたり笑ったり・・・

自分にとって大事なものだったんだということを終わってみて気付くものなのかもしれないですね。

みんなそう・・・

それでいいし、終わってからそう思えるということが素敵だし素晴らしいことなんだと思います。

高校野球をもう一度できるなら「やりたい!」

そういう答えが返ってくることはやはり凄く嬉しいです。

私にとって、こんな久々な再会や、今まで出逢えた元高校球児との会話は、

その日の試合の楽しみ以上のものがあり充実した気持ちになります。

今日出会えた方々、出逢った元高校球児のみんな ありがとう!


試合開始までが長~くなってしまいましたが・・・。

開幕戦 大阪桐蔭と明石商業との対戦は、ここで書くまでもなく

大注目の対戦なので結果や、それぞれの選手の活躍はみなさんネットでご存知かと思いますが・・・

大阪桐蔭はやはり凄い!という攻守ともの立ち上がりでした。

スターティングメンバーです。

怪我で大阪大会には外れていた藤原選手をはじめ、選抜以来、公式戦に登板した柿木投手も継投登板。

藤原選手に至っては、1番センターで先発し、5安打2打点、1四球 盗塁も1つ。



初回の初球をライト前ヒット

ここは二塁を果敢に攻めるも、明石商業ライト安藤選手の返球勝りアウトとなるものの、

この先頭打者ヒットは大阪桐蔭に波を向けた一打だったと思う。

藤原選手の先頭打者ヒットをきっかけに、3番中川主将が3塁戦を抜くヒットと、

4番根尾投手の四球、5番山田(健)選手のタイムリーで先制。


2打席目は2回表 無死1、3塁となったところで、

明石商業は先発中森投手(18)より先に書いた加田投手へ継投し、

9番中野選手(17)を三振に取り1死1、3塁で藤原選手へ。

3B1Sとボールが先行する中、次球をライトへ運びタイムリー!

2番青地選手の打席に盗塁も決めます。


3打席目は4回表 8番小泉捕手が初球を捉えセンター前ヒットで出塁すると、

9番中野選手の初球 ショートゴロに二塁フォースアウトを狙うもミスとなりオールセーフ。

1死1、2塁 この場面で藤原選手がライトへタイムリー!2打点目。


4打席目は、インターバルを終えた6回表の先頭打者。

フルカウントからセカンドの頭上を越えセンター前へ!

5打席目は、8回表 1死ランナーが無い場面 センターへ2ベースヒット!

6打席目は延長戦へ入り10回表 先頭 8番植田選手の初球センター前ヒットと

9番河野選手の犠打で1死2塁の場面、ここは初めて打ち取られライトフライに。

・・・と、要所々で活躍を魅せた藤原選手でした。

また、大阪桐蔭先発根尾投手。

根尾投手の登板を生で観たのは実は初めてで、これも楽しみすぎる明石商業打線との戦いでした。



そして6回3/2から根尾投手から継投した柿木投手(10)

替りばな三球三振の痺れる立ち上がりでしたが、明石商業も負けていられません。

8回には4連打と、一瞬送球も惑わせる絶妙な水上捕手のピッチャーゴロで先取された6得点を同点。

絶対的王者の大阪桐蔭に明石商業ここにあり!の粘り強さを魅せてくれました。

結果、延長戦へともつれ込み、明石商業5人目 溝尾投手へ継投後に

2番青地選手のレフトへの犠牲フライが決勝点となり、大阪桐蔭が逃げ切る形で勝利した対戦でした。












夏には3季連続の決勝進出や、今チームも秋春を制している明石商業のこの底力はさすがでした。

高校野球デビューをしたばかりの1年生中森投手が先発。

兵庫大会や、この大阪桐蔭戦の先発は大きな経験になりましたね。

1番打者にも1年生来田選手の起用など狭間野球は面白い! 

中森投手も来田選手も1年生とは思えない堂々たる姿で、夏にも大きな戦力になることでしょう。



加田投手の登板も久しぶりに観ることができ、また夏での活躍に期待です。

エース福谷投手 5回から3イニングの登板

感情表現いっぱいに気迫溢れる投球で

強力打線を4安打無失点4奪三振に抑える好投を魅せてくれました。

9回より継投した勝本投手

春近畿大会は、王者大阪桐蔭へ僅差に迫る戦いが観られ、惜負でしたが

選手起用や戦い方、粘り強さなど今夏の西兵庫を照準にこの春を戦っている印象が強かったです。

あれ@@?! Rが14・12となっていますが間違いですね~ナゼ???

大阪桐蔭 7ー6 明石商業 です。





大阪桐蔭の選手はとにかく選手間の声掛けが凄い!

ピッチャーの1球1球の投球間にも必ず誰かが声を掛けていました。

「主将でチームは変わる」・・・

特に中川主将は攻守ともいつの時も一番の声が響いていました。

甲子園では聞こえてこない選手の声や、チームが持つ雰囲気を間近に感じることができ、

個々の力も凄い大阪桐蔭の選手たちですが、こういう所にも強さの秘訣を見たように思います。









また、第2試合 市立尼崎と智辯学園も注目の一戦。

今日は何より楽しみにしていた市立尼崎 小森投手の先発。



今日は立ち上がりから苦しい展開となり初回のみの登板でしたが

また夏に応援できることを楽しみにしている投手です。

エース竹中投手へと継投しました。



智辯学園は伊原投手が3安打完封

要所々に力強い素晴らしいピッチングを魅せてくれました。

市立尼崎 0-7 智辯学園(7回コールド)





市立尼崎は残念な結果となってしまいましたが、市尼力はこんなもんじゃないと思うので

また明日から夏へ向かって進んでいってほしいと思います。

市立尼崎のスタンドの応援プレイヤーたち!今日も誇れる応援プレイだった。

最高~に楽しい気持ちになる最高の応援でした。

また兵庫の夏に球場で応援できることを楽しみにしています。

近畿大会開幕日、素晴らしい対戦を魅せてくれた大阪桐蔭、明石商業、

市立尼崎、智辯学園の選手のみなさん ありがとう!

準決勝は大阪桐蔭と智辯学園との対戦、また楽しみな一戦ですね。

明日は残る兵庫勢 滝川第二の初戦、乙訓と、選抜準優勝の智辯和歌山は比叡山との対戦です。

高嶋監督さんの繊細ノックを久しぶりに見にいきたいところでしたが、

明日は夏へ向かう球児のもとへ行きたいと思います。

今日に続きまた明日も早いので所々になってしまいましたが、

今日の4チーム選手の頑張りは改めて試合を振り返りながら写真もアップしたいと思います。

558枚の夏へのあしあと

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5月も下旬、三年生は最後の夏を迎えるまであとひと月あまりとなりました。

どのチームの三年生選手もラストスパート、熱い汗を流していることでしょう。

今日は、私の中に記憶しておきたい夏へ向かう選手に会いに神戸村野工業ひよどりグラウンドへ。

練習試合2試合を観させていただきました。

私・・・

いつも試合を観戦する時は野球ノートに試合経過を書かないと、

さっき観た素晴らしいプレーもあれ?何だったけ~と・・・

歳のせい?じゃなく頭の回転、記憶力が欠けているのかな・・・~~;?

今日は野球ノート記録はお休みしたので、あのプレー、このプレーも・・・

忘れた・・・忘れることにしました。

でも!頑張ろうとする選手たちの姿、表情は記憶に残っています。

「頑張った」・・・とは

ヒットを打ったとか、打点を挙げたとか・・・それだけじゃないと思うんですよね。

大事なのは目の前のことに本気で「頑張ろうとしたか」だと。

たとえ頑張ろうと本気で頑張ってミスをしてしまったとしても、

その姿は誰かの心にちゃんと残っているものです。

ミスをしてしまったとしても、その後、それを挽回しよう!今度こそ!と、

そういう気持ちを感じるプレーや行動を記憶に残すのです。

ヒットもミスも、同じだけ頑張ろうと頑張った「結果」なのです。

その頑張ろう!という気持ちを持って頑張ったなら、

結果がどうであれ、結果ではなく、その姿 気持ちを私は応援します。

今日は558枚の夏へ向かう三年生のあしあとを残すことができました。

私には一瞬一枚に意味を感じます。

558枚はここにアップできないので、特に感じるものがあった一瞬をアップします。






















































































































どの姿からも「頑張ろ!」とする気持ちを感じるものばかり。

笑顔を残したかったのでも、カッコよく写真を撮りたかったのではありません。

頑張ろうとする気持ちを残したかったのです。

ず~~~~~っと、その姿に会いたいなと思っていたことが叶いました。

558枚の夏へのあしあとは大切に保存したいと思います。


三年生最後の夏までラスト!ひと月あまり。

素晴らしいヒットより、「頑張ろう!」という気持ちを持ち

残された時間、「グラウンドの中にある全ての事」に・・・

向き合うことが何より大事で素晴らしいことだと信じています。

夏の終わりに「頑張った」なと自分自身思えるように。

私はそんな三年生選手の「頑張ろう」とする気持ちを

最後まで自分なりの気持ちを寄せて全力で応援します。

2018年 春季高校野球 近畿大会 5月27日対戦結果

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近畿大会2日目

一昨日、残念ながら兵庫勢2校が春を終え、昨日は残る一校 滝川第二の登場。

初戦は、秋春とも京都の頂点に立ち、選抜では3回戦進出と活躍光る乙訓との対戦。

3回に犠飛で先制されるも、好守で流れを掴んだ滝川第二の中盤6回

昨日は球場で応援することはできず速報での応援でしたが、

その後ゼロが並ぶスコアーに、いつか好機はやって来ると思っていたところ、

4番長谷川選手の選球眼と5番木谷選手がヒットでチャンスメイクし、江端捕手が逆転のタイムリー!

江端捕手の活躍に、オ~やっぱり凄い!と大拍手でした。

江端選手は、お知り合いのお知り合いの息子さん。

春県大会でお父さんを紹介していただき、江端選手の活躍を喜び合いました。

7回には高島選手の活躍に、古谷選手が追加点を挙げ勝利、準決勝へ進出しました。

秋は兵庫勢全てが1回戦悔負を喫したので、滝川第二の勝利は凄く嬉しかったですし、

兵庫球児を応援する方々にとっても嬉しい一勝になったと思います。

第2試合は選抜準優勝校 智辯和歌山が7回コールドで圧勝。

滝川第二との準決勝が決まりました。

滝二の粘り強い野球で決勝へ進出してもらいたいなと思います。


6月2日 準決勝 対戦組み合わせ

10:00~ 大阪桐蔭vs智辯学園

12:30~ 滝川第二vs智辯和歌山


5月27日 対戦結果

乙訓   001 000 000=1
滝川第二 000 002 10× =3

乙訓 富山、川畑ー薪谷
滝川第二 田邉ー江端

兵庫県高校野球連盟試合速報より

3回表乙訓9番富山が内野安打で出塁、続く1番大上の右前安打で無死1・3塁。乙訓先制のチャンス。
2番浅堀の犠飛で乙訓1点先制。
5回表乙訓1死後9番富山が左中間二塁打で出塁。続く1番大上の3球目にWPで走者3進、
1死3塁となるが滝二が好守で無得点に抑える。
6回裏滝二1死後4番長谷川が四球で出塁。
続く5番木谷が左前安打で1死1・2塁となる。
2死後7番江端の2塁打で2者生還。
滝二逆転に成功。
7回裏滝二。この回から乙訓投手川畑に交代。
2死後1番髙島が四球で出塁。続く2番古谷の3球目に髙島が2盗に成功。
このチャンスに古谷が右前適時打で滝二1点追加。
9回表乙訓2死後5番茨木が右前安打で出塁粘りをみせるが攻撃もここまで、
滝二が春季近畿大会準決勝進出を果たす。


比叡山   000 000 0=0
智辯和歌山 400 050 ×=9
(7回コールド)

比叡山 勝、中澤ー中角
智辯和歌山 平田ー東妻

兵庫県高校野球連盟試合速報より

初回比叡山 先頭の中井が左前打を放つも無得点。
その裏の智辯和歌山は先頭神先の四球と2番西川の内野安打から1死二・三塁とすると、
4番文元が左前タイムリーを放ち2点を先制。
さらに5番冨田も左中間を破るスリーベースを放ち3点目。
なおも6番黒川が左犠飛を放ち、この回4点が入る。
2回比叡山 先頭の4番勝が四球を選ぶ。
さらに1死後、6番荒木が右前打を放ち一・三塁とするも後続を断たれる。
3回比叡山 先頭の9番安田が左前打を放つも無得点。
5回智辯和歌山 連続敵失などから1死一・三塁のチャンスが転がり込み、
5番冨田が中前タイムリーを放ち5点目が入る。
さらに続く6番黒川が左中間にスリーベースを放ち2者を迎え入れ2点追加。
なおも8番東妻の左犠飛や9番平田の左越ツーベースなどで加点し、この回結局5点が入る。
反撃したい比叡山だったが7回の攻撃も3人で終了。
結局9-0で智辯和歌山がコールドで勝利。
準決勝にコマを進めた。

兵庫球児100年のあしあと 25

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 25

節目の第50回大会は、10回大会から13回大会まで4連覇という驚異的な記録を持つ

第一神港商の後身、市神港が17回大会以来実に37年ぶりの返り咲きを果たす。


第51回大会は、絶対的エース杉本投手擁する東洋大姫路が初の栄冠に。

東洋大姫路の創部は1963年の45回大会、市立西宮が優勝した年で

兵庫の高校野球歴史の半数あまりが過ぎようとしていた頃の誕生と意外だ。

2014年に創部50周年を迎え、改修を終え生まれ変わったばかりのウインク姫路球場で

その春選抜出場を決めていた報徳学園と記念試合が行われ観戦に行った。

東洋大姫路野球部~創部50周年記念試合~

51回大会の初優勝から3年後、54回から56回大会を3連覇、

その後も8回の優勝を誇る兵庫の強豪校。

今夏、2011年93回大会以来の頂点を目指す。


第50回大会(1968年)

~伝説の剛腕 市神港・山口~


第50回大会で古豪・市神港を甲子園に導いた山口高志投手
(兵庫県高校野球五十年史より)


1915(大正4)年に産声を上げた兵庫大会は、68(昭和43)年で第50回を迎えた。

節目を飾ったのは、第一神港商時代に選抜大会連覇を誇る古豪・市神港。

37年ぶり6度目の立役者は伝説の剛腕・山口高志だ。

身長169センチと小柄ながら、力を振り絞るように右腕を振り下ろし、うなる速球で押した。

2年春の県大会で2戦連続に無安打無得点試合。


夏は山本功児(元ロッテ監督)がけん引した三田学園に敗れたが、

3年時に春夏連続の甲子園出場を果たした。

関大で日本一に輝き、松下電器から阪急入り。

故障で実働期間は短かったものの、新人王や日本シリーズMVPなど強烈な印象を残した。

プロ野球史上最速とも称された速球に「自分が速さを感じるのは不可能。(評判は)こそばゆい」と山口。

阪神のスカウト、コーチを経て、67歳の今は母校関大で学生を指導している。


神戸新聞 山本哲志氏


第51回大会(1969年)

~東洋大姫路時代の序章~


第51回大会で初の栄冠に輝き、場内を行進する東洋大姫路ナイン


1969(昭和44)年の第51回大会は、新たな強豪がのろしを上げた。

63年創部の東洋大姫路。

弱冠27歳の梅谷馨監督が率い、64年の兵庫大会初出場からわずか6年で頂きに登り詰めた。


同年春の選抜大会8強、尼崎西との決勝はエース杉本正時が無四球で3安打完封。

杉本は全7試合63回を1人で投げ抜いて4度目の完封劇を演じ

「杉本がいなかったら優勝は絶対に無理だった。彼が中心のチームだった」

と当時の部長、大久保強(80)はたたえる。


初優勝を飾った梅谷は、兵庫大会決勝の翌日、姫路商の元監督、田中治を訪れた。

「一から野球を学びたい」と社会人野球出身の田中に監督就任を依頼したという。

田中は甲子園大会後、正式に監督に就き、梅谷との二人三脚の体制を確立。

1970年代の隆盛へとつながる。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)

兵庫球児100年のあしあと 26

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 26

第52回は洲本を9-2で破り6年ぶりに滝川が甲子園へ帰ってきた。

第53回大会は、17-1と報徳学園が圧勝で優勝。

47回から49回大会の3連覇後、4年ぶりに頂点に。

惜しくも準優勝となった山崎が取り上げられている。

山崎にはご縁がある。

山崎の名を見て、あの夏を懐かしく思い出した。

選手の親御さんとの必然な出逢いがあり、2015年 三年生の夏を見届けさせていただいた。

私にとっても熱く素敵に記憶に残る夏だった。

2015 夏のmemory♪ 第97回全国高校野球選手権 山崎 宝塚東球児たちの夏の始まり☆彡

2015 夏のmemory♪第97回全国高校野球選手権兵庫大会3回戦 北摂三田vs山崎 全力の夏☆彡

卒業に贈ったブログ

まりあマネージャーさんからのコメントが私の励みになった。
山崎高校野球部3年生選手のみなさん 卒業おめでとう☆.。.:*・゜

とても明るく大好きなチームだった。

その前年には生野とのご縁もあり、どちらの高校も長閑な地域の学校で

土地柄か地元の選手ばかりで部員数も多くないのですが、

それだから何か選手同士の絆を深く感じる温かい雰囲気を持ったチームの野球に触れ、

この頃は、そういう土地柄の中にあるチームをもっと観てみたいなと関心が深かった。

この年の山崎には選手以上のムードメーカー、19番目の選手と言って過言ではない

チームには無くてはならなかったまりあちゃんというマネージャーさんが居た。

選手を鼓舞する姿とはかけ離れた可愛らししい素敵な彼女は笑顔もたくさん向けてくれた。

まりあちゃん、あの夏の選手たちは元気にしているかなぁ~。

山崎は99回の兵庫の夏の歴史の中で、この53回大会準優勝が最高成績となっている。

今夏は西兵庫に入る山崎、100回目の夏に播磨の奥から新風を吹かせてもらいたい。


第52回大会(1970年)

~滝川、宿敵破りV奪回~


第52回大会で6年ぶりの頂点にたった滝川ナイン
(兵庫県高校野球史より)

1970(昭和45)年の第52回大会は名門、滝川が6年ぶりに王座を奪回。

春夏連続の甲子園出場を遂げた。


この夏の最大のライバルは三田学園。

淡口憲治(元巨人など)、羽田耕一(元近鉄)ら強打者が並び、選抜大会では8強入りした実力校だった。

両校は兵庫大会準決勝で激突。

1点を争う接戦は七回に滝川が勝ち越し、4-3で振り切る。


三塁手兼投手の亘(わたり)栄一郎からエース松田正彦への継投で大きな山場を乗り越えた。

亘は日大を経て母校の指導者に転じた。

滝川第二戦では監督を努め、88年に滝川の伝統を受け継ぐ同校を初めて夏の甲子園に導いた。


自身の高校時代を振り返り「バントや盗塁など、できることを確実にできる選手がそろっていた」と話す。

65歳を迎え、昨年県高野連から指導者表彰を受け、長年の功績をたたえられた。


第53回大会(1971年)

~山崎、快進撃の準優勝~


第53回大会準決勝、山崎ー津名戦から
(兵庫県高校野球史より)

西播磨から強烈な風が吹いた。

1971(昭和46)年の第53回大会は山崎が初の決勝進出。

甲子園には届かなかったが、公立校の快進撃は山間部のまちに夢を抱かせた。


宍粟郡(現宍粟市など)の力ある中学生が集まり、

育英出身の石田広志監督の下、「3カ年計画」で強化。

打撃を重視したチームは4試合でコールドゲーム勝ちし、

準決勝までの6試合で計46得点をたたき出した。


決勝は報徳に1-17の大敗を喫したが、試合後、

山崎町役場(当時)に戻ったナインは大歓声で出迎えられた。

健闘をたたえる花吹雪が舞い、役場から同校までの道のりをパレードした。


同年のドラフトで巨人から4位指名を受けた主砲の尾形正己(65)は

「(パレードの)光景は忘れられない。あの夏が後々の野球人生の心の支えとなった」。

尾形はプロ入りせず、新日鉄広畑(当時)で選手、監督として活躍した。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)

夢つなぐ始球式☆.。.:*・゜

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近畿地方は梅雨入り間近、来週始めにも梅雨入りが発表となりそうです。

嫌な雨多い6月になりそうですが、ここを凌ぐといよいよ高校球児の熱い夏がやって来きます。


今夏は100回記念大会の記念行事が数々行われるようですが、

そのひとつ、選手権地方大会では、秋春地区大会が行われる全国9地区

(北海道、東北、関東、北信越、東海、近畿、中国、四国、九州)に区分けし、

9個のボールで99回の始球式が行われ、夢甲子園へと繋がれていく

「100回つなぐ始球式リレー」

全国の高校球児の夢乗せた9個のボールは聖地甲子園へと届き、

8月5日に開幕する全国高校野球選手権の開幕日、10個目のボールで100回目の始球式が行われます。

100回目のメモリアル始球式ボールを捕るのは、開幕戦後攻の先発キャッチャーかな?

一生思い出に残る素晴らしい一瞬になることでしょうね~

どのチームの選手がその記念ボールを捕ることになるのか楽しみですね。


現在神戸新聞連載の白球回想 夏の兵庫大会史を紹介中ですが

その中にもあった高校野球全国大会発祥の地、第1回大会が行われた

大阪府豊中市の豊中グラウンド跡地にある「高校野球発祥の地記念公園」で

第1回全国中等学校優勝野球大会の優勝を飾った京都二中(現鳥羽)のOBや

鳥羽高校OB、元マネージャーさん、日本高野連の八田会長、朝日新聞大阪本社の小倉氏、

豊中市の長内市長など9名の方々によって、全国の高校球児へ夢つなぐ始球式が本日行われました。


6月23日には全国で一番早く沖縄大会が開幕し、夢つなぐ始球式が各地区を巡ります。

私は近畿地区を巡る始球ボールを兵庫大会で見ることが楽しみです。

全国の高校球児の夢、そして球児を応援されている方々の夢も乗せて

9個のボールが無事に甲子園へ素敵に届くことを願います。


~F~の意味

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高校球児のみなさんは、日本高校野球連盟旗にある「F」という文字の意味をご存知かと思いますが

「F」には・・・

フェデレーション(連盟)を表す「F」と共に、

フェアプレイ(公明正大)

ファイト(勇気)

フレンドシップ(友情)

という意味を持つ。

公明正大とは、・・・

私心をさしはさまず、公正に事を行うこと。

「公明」は公平で私心のないこと。

不正や隠し立てがないこと。

「正大」は態度や行動などが正しくて堂々としていること。

公平であり、良心に恥ることがなく正しいこと。

また、そのさま・・・とあります。


マナーの根源ともいえる三大精神の象徴だと兵庫県高校野球連盟の

高校野球のマナーとルールを学ぼうでも記載があるように、

スポーツをする上だけでなく人としても、学生生活や社会生活、

家族間や友人同士の中にも「F」の中にある意味を心に置いて生活したいものです。


・・・とても残念な出来事を目にしました。

春県大会の覇者、地区大会でも頂点に立ったチーム内に於いて

部員同士(上級生から下級生へ)の暴力があったとして、処分決定まで対外試合を自粛中だとか・・・。

何らかの理由があったのか?何かがあったからそういう事態になったのだと思うし、

そこは詳しくは分からないし、どういう処分が下りるのか分からない状況ですが、

選手権も間近に控え、全く関係のない選手たちも大会出場に影響があるかもしれない。

高校野球の中で何度も繰り返されるこういう問題。

当事者だけではなく、仲間の夢まで奪いかねないことを考え行動しないといけない。

高校野球、高校球児を応援する一人として声を大にして言いたい。

暴力から生まれ得るものなど何もはない!

言葉の暴力も同じだ。

チームプレイに於いて、このくらい…と思うこと、軽い気持ちで起こした行動で

多くの仲間、同志が涙に明け暮れることにもなりかねない。

自分自身も、今まで重ねてきた努力を発揮する場所さえ

与えてもらえないということになりかねない。

今一度、「F」の意味、「F」の精神で、素晴らしい高校野球生活を送ってもらいたい。

「F」の精神は、相手のある試合の中だけではない。

共に同じ夢、目標に向かう仲間と過ごす毎日にまずあることを再確認してもらいたい。

2018年 春季高校野球 近畿大会 6月2日準決勝対戦結果

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近畿の春 準決勝

初戦より大幅に打順を替えた大阪桐蔭でしたが、

先頭に起用された石川選手は公式戦初めての1番打者起用だったとか。

5打数5安と勝利を導く大きな活躍素晴らしかったですね。

初戦の明石商業戦では注目の4番打者は厳しく攻められ4打数無安打に終わった根尾選手。

準決勝では本来の積極なバッティングを取り戻すべく与えられた2番へ。

「なぜ2番にしたか考えて」の監督さんの言葉へ、対応力がさすが素晴らしい活躍でした。

大阪桐蔭 秋に続き決勝進出です。


第2試合 智辯和歌山と滝川第二との対戦は逆転につぐ逆転の接戦好ゲームになりました。

今日は残念ながら速報での応援になりましたが、ドキドキワクワクする熱い戦いでした。

序盤、滝川第二 先頭高島選手のランニングホームランに始まり、優位に試合を作りましたが

さすが選抜準優勝校、智辯和歌山の力は凄かったですね。

初戦、大阪桐蔭と対戦した明石商業も、滝川第二も僅差悔負となりましたが、

兵庫球児の強さを魅せた、夏への勢いをもらった春近畿大会だったのではないでしょうか。

また、初戦 智辯学園に完封負を喫した市立尼崎ですが、先発した小森投手。

兵庫の春に魅せられた小森投手でしたので、この対戦での不調に驚いた私ですが

前日の練習で指を痛めてしまったと記事にあり、変な言い方だけど逆に安心しました。

もうすぐ始まる夏への影響がないことを願います。

兵庫勢3校は春を終え夏へ!

また3校の夏を楽しみにしたいと思います。

明石商業、市立尼崎、滝川第二の選手のみなさん 春お疲れさまでした。


また、昨日明石商業は日体大との練習試合を行い、

第1試合は先制を奪い4-5の接戦で惜負。

明石商業 102 010 000=4 (H8)
日体大  102 020 00× =5 (H12)

第2試合にも先制し、日体大 8-4 明石商業で迎えた最終回

一挙7得点を挙げて大逆転勝利しています。

日体大  010 030 220 =8 (H8)
明石商業 220 000 007×=11 (H10)

最終回何が起こったのだろう・・・?

試合の内容が知れず残念ですが、しかし昨秋の明治神宮大会覇者の日体大を相手に

スコアーからも力を発揮した様子が伺え、4度目の正直、夏の頂点を目指す明石商業の

勢いと意気込みを感じ、大学生との対戦は良い経験になりましたね。

第2試合には一昨年のエース吉高投手との対戦が実現したとか。

先輩吉高投手との対戦を楽しんだことでしょうね。

吉高投手の大学野球での活躍も楽しみです。


近畿大会決勝は選抜決勝の再戦が実現し大阪桐蔭と智辯和歌山との対戦となりました。

両校は2017年の春近畿大会1回戦、選手権2回戦、今チームとなり秋近畿大会決勝、

今春選抜決勝と過去4戦を対戦し全て大阪桐蔭が勝利を収めています。

智辯和歌山は雪辱に燃える一戦、明石球場は大いに沸くことでしょう。

決勝は6月3日 13:00 プレイボールです。


2018年 春季近畿大会 準決勝対戦結果


大阪桐蔭 101 301 000=6
智辯学園 001 011 000=3

大阪桐蔭 横川、柿木ー小泉
智辯学園 伊原、川釣ー小口

兵庫県高校野球連盟試合速報より

高野連速報で、スコアーの投手欄・速報に大阪桐蔭 柿木投手が柿井となっているところがありましたが・・・
柿木投手の間違いですね

1回表桐蔭1番石川が右前へ2塁打。
1死後3番中川が四球で1死1・2塁。4番藤原を迎える。
ここで藤原の内野ゴロで2死1・3塁となり続く5番山田健が左翼線2塁打で桐蔭1点先制。
3回表桐蔭1番石川がまたも右前2塁打で無死2塁。
2番根尾が中前安打で続き無死1・3塁とする。
続く3番中川の犠飛で桐蔭1点追加。
3回裏智辯1死後3番塚本が右中間3塁打で1死3塁とチャンスを作る。
2死後5番岡野の左前安打で智辯1点を返す。
4回表桐蔭6番飯田が四球で出塁。
1死後8番青地が中前安打で1死1・2塁となる。
犠打で2死2・3塁となり1番石川を迎える。
石川は左前適時打を放ち2者生還。
更に続く2番根尾も右前適時打で1点追加。この回3点目。
5回裏智辯1死後2番左向が四球で出塁。
2死後4番吉村の3球目に左向が2盗に成功2死2塁とした直後、左前適時打で智辯1点を返す。
6回表桐蔭先頭7番小泉が四球で出塁。
8番青地が右前安打で続き無死1・3塁のチャンス。
ここで9番横川の内野ゴロの間に3塁走者生還1点を追加。
6回裏智辯1死後7番小口が左前安打で出塁。
8番伊原が右前安打で続き1死1・2塁となったところで智辯は代打佐藤を送る。
ここで見事に中前適時打を放ち1点を返す。
7回表智辯この回から投手川釣に変更。
7回裏桐蔭この回から投手柿井に変更。
9回裏智辯最後の攻撃は1番坂下からの好打順も最後は大阪桐蔭柿木の好投で智辯学園を振り切った。


智辯和歌山 003 030 201=9
滝川第二  110 104 000=7

智辯和歌山 小堀、池田ー東妻
滝川第二 田邉ー江端
本塁打 滝川第二 高島

兵庫県高校野球連盟試合速報より

初回滝二 先頭の髙島が右越えにランニングホームランを放ち早々と1点先制。
2回滝二 先頭の5番木谷が右前に落とし、処理が遅れる間に二塁に到達。
さらに続く6番山下が中前打を放ち無死1・3塁。
1死後8番三橋が右前にタイムリーを放ち2点目を奪う。
3回和智辯 先頭の9番小堀が左越えにツーベース、
1番の神先が右前打、さらに2番西川も四球を得て無死満塁に。
このチャンスに3番林が左中間フェンス直撃のスリーベースを放ち同点(3人目の走者は本塁憤死)。
なおも5番冨田が中犠飛を放ち逆転に成功する。
4回滝二 先頭の5番木谷が敵失を得て出塁すると、1死後7番江端が右前タイムリーを放ち同点に追いつく。
5回和智辯 先頭1番神先の右中間ツーベースと2つの四球から1死満塁のチャンスを得ると、
5番冨田が右犠飛を放ち勝越しに成功。
さらに続く6番黒川も左中間を破るツーベースを放ち2点を追加。
6-3とリードを広げる。
6回滝二 1死から6番山下が四球、7番江端が左前打を放ち1・2塁。
ここで8番三橋が左中間にスリーベースを放ち2点が入る。
さらに1番髙島も内野安打を放ち同点。
なおも2番古谷と3番遠藤の連打で逆転に成功する。
7回和智辯 先頭2番の西川が四球を選ぶと3番林の右前打で無死2・3塁に。
ここで続く4番文元が中犠飛を放ち三度同点。
さらに5番冨田にも左前タイムリーが出て再び逆転に成功。
9回和智辯 先頭の2番西川、3番林、5番冨田が四球を得て1死満塁とすると、
6番黒川が左犠飛を放ち1点を追加。
9-7とリードを広げる。
9回滝二は1死から5番木谷が右前打を放ち意地を見せる。
しかし後続を断たれて得点ならず。
両チーム合わせて21安打の壮絶な打撃戦を智辯和歌山が制し明日の決勝戦へとコマを進め、
今春センバツ決勝戦の再現となった。

2018年 春季高校野球 近畿大会 大阪桐蔭優勝おめでとう☆彡

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今日も球場へ応援に行けなかったので明石商業戦より

大阪桐蔭 春近畿大会2連覇おめでとう

近畿大会では2017年春、秋と3季連続の優勝。

2017年秋季大阪大会に2018年選抜、春季大阪大会と負けなし。

もう本当強すぎますね。

今日の決勝でも、期待の主力選手がチャンスを逃さず素晴らしく活躍光ってました。

先発完投した根尾投手は今日は打順5番。

どこを守っても打っても凄い根尾選手ですが、昨日の準決勝2番打者での経験が

今日の決勝でもさらに力発揮する要因になったのではと思う活躍でしたね。


今日はプロ野球交流戦 阪神タイガースvs西武で阪神先発は藤浪投手でしたが、

高校時代春夏連覇の名バッテリー森捕手との初対決が実現。

また、東京六大学伝統の一戦 早慶戦では、

2017年選抜優勝投手 徳山投手(早大)が9回の1イニングに登板。

2奪三振にライトフライの好投で試合を締め勝利しました。

1年生ながら堂々としたマウンドでの姿で、高校時代よりさらに力強いピッチングを魅せてくれました。


そうそう!早慶戦と言えば、この対戦の早大先発は浦和学院で活躍した小島投手。

久しぶりに小島投手の姿を観ることができて、高校野球時代を懐かしく思い出しました。

もう4回生なんですね~早っ! 

今日は7回を9被安打無失点の大好投で勝利に導きました。

大学野球には、あの選手この選手と高校野球での活躍を観ていた選手たちの

その後の更なる活躍を観ることができることは、また高校野球とは違うワクワク感をもらえます。


今日は大阪桐蔭の優勝に、あちらこちらで大阪桐蔭出身選手の活躍を

見ることができた大阪桐蔭dayでした。


そして、智辯和歌山の選手のみなさん 

準優勝おめでとう

選抜決勝から打倒大阪桐蔭を胸に頑張ってきたという智辯和歌山の選手たち。

またしても悔負の結果となってしまいましたが、再び今夏甲子園での大阪桐蔭との再戦や

夏の頂点をを目指して明日から選手たちは走り続けることだと思います。

智辯和歌山の夏を楽しみにしたいと思います。

今春近畿大会ではタイミング合わず大好きな高嶋監督さんと

再び明石球場でお会いすることができなかったことがとても残念でした。


近畿球児の春は大阪桐蔭の2連覇で幕を閉じ、いよいよ夏モードです。

今夏も近畿球児たちの活躍を心から楽しみにしています。

近畿球児のみなさん 春お疲れさまでした。


2018年 春季近畿大会 決勝対戦結果

 123456789計 大阪桐蔭 0 0 0 2 0 0 0 1 0 3 智辯和歌山 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1

大阪桐蔭 根尾ー小泉
智辯和歌山 平田ー東妻

兵庫県高校野球連盟試合速報より

1回裏智辯先頭1番細川が内野安打で出塁。
2番神先が右前安打で続く。
その後内野ゴロを桐蔭内野陣の好守でダブルプレイ。
2死3塁となるが、4番文元がセンターへしぶとく適時打を放ち智辯1点先制。
2回表桐蔭先頭5番根尾が右前安打で出塁したが後続を断たれ無得点。
4回表桐蔭先頭3番中川が中越二塁打で出塁。
4番藤原が左前二塁打で1点を返し同点。
なおも5番根尾が右前適時打を放ちこの回2点目。
一気に逆転に成功。
5回裏終了で桐蔭1点リード。
試合は後半戦へ突入。
8回表桐蔭1死後3番中川が内野安打で出塁。
続く4番藤原が右前安打で1死1・3塁とする。
ここで5番根尾が一塁線を鋭く破る2塁打を放ち3塁走者生還で1点追加。
1塁走者は智辯和歌山の見事なバックホームで本塁タッチアウト。
この回桐蔭1点。
9回裏智辯最後の攻撃。
8番東妻が2死から左前安打で出塁し粘りを見せるが後続を断たれた。
今春の選抜高校野球大会決勝と同じカードになった春季近畿大会決勝戦は
またも大阪桐蔭に軍配が上がった。
大阪桐蔭高校2年連続5回目の優勝。

兵庫球児100年のあしあと 27

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春が進む中、合間をみてボチボチ紹介してきた白球回想も、

現在手元には74回大会(1992年)まで届いている。

週末は県大会や近畿大会の記事が入るので白球回想はお休みとなるが、

取材して記事にして紙面で読者に届ける・・・

時間のある私なのになかなか追いつけなくて、新聞記者さんの凄さを感じる。

夏の兵庫大会、近畿大会も昨日終了し、もうすぐ始まる夏へ気持ちがはやりますが、

もう少し時間があるのでそれまでの間、白球回想を急いで追いかけ追い付きたいなと思います。


白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 27


東洋大姫路の3連覇を導いた故 田中治監督さんの運命にも触れ、

早すぎる旅立ちが悔やまれますが、ふと・・・我が父の旅立ちが頭によぎった。

私の父は何より大好きな釣りをしながら逝ってしまったのですが、

よく・・・こよなく愛する事(愛する場所で)をしながら死ねるなら本望という言葉を聞くが、

生きがいとしていた釣りをしながら旅立てたことは、今となっては父にとっては本望だったのかなと。

田中監督さんは大好きな野球をしながら、大好きな東洋大姫路の選手たちに囲まれグラウンドで旅立たれたそうで・・・

特攻隊員として散る命を想うと、大好きなグラウンドで旅立った田中監督さんは幸せだったのかも。

今、空の上から東洋大姫路の選手たち、そして藤田監督さんを甲子園へ導くため見守られておられるのかなぁと。

感慨深い記事だった。

今夏は西兵庫で甲子園を目指す東洋大姫路。

現選手たちは田中監督の事を知らないけれど、藤田監督んと田中監督さんは現在に繋がっている素敵なご縁があり

ぜひぜひ、藤田監督さんの背に田中監督さんのことを少しでも感じてもらえたらと思うし、

東洋大姫路野球部の偉大な歴史を築いた 故 田中監督さんをそっと心に置いて、

藤田監督さんと共に再び「夏の東洋」呼ばれる時代を築いてもらいたいなと思います。

そして、55回大会を迎える前、志半ば同じくグラウンドから旅立った池尻一平選手を偲んで・・・

東洋大姫路球児が果たした輝く3連覇時代を紹介したいと思います。


第54~56回大会(1972~74年)

~「夏の東洋」、魂のV3~


東洋大姫路の黄金期を築いた田中治監督
(東洋大姫路野球部創部40年史より)


第56回大会で戦後3校目の3連覇を果たし、優勝旗を受け取る東洋大姫路ナイン


高校野球界にとどろく「夏の東洋」の異名を確かにした。

1972(昭和47)年の第54回大会から3年連続優勝。

63年の創部から10年で東洋大姫路が牙城を築き上げた。


初優勝以来、3年ぶりの栄冠に輝いた第54回大会は決勝で市神港と顔を合わせた。

伝統校との決勝は2-2の六回から膠着(こうちゃく)。

延長十五回表、2番打者の井上光一が決勝の適時三塁打を放ち、死闘にけりをつけた。


翌73年の第55回大会はチーム内の危機を乗り越えた。

5月に4番打者の池尻一平が練習中に心臓麻痺で急死。

中心打者を亡くす悲しみに包まれる中、エース福井幸次は

右手のけんしょう炎の痛みに耐えながら力投を続けた。


名門・滝川との決勝は1点を追う六回に試合をひっくり返した。

1死一、三塁からの内野ゴロが相手守備の乱れを誘って命拾いすると、

満塁からの内野ゴロが相手のグラブをはじき、2者が生還。

しぶとい攻めで2連覇をたぐり寄せた。


74年の第56回大会は、後に阪急で活躍する弓岡敬二郎が1年生で1番・遊撃を担う。

走攻守の三拍子が備わった黄金ルーキーは準決勝の滝川戦、

3-3で迎えた九回裏2死からヒットでつないでサヨナラ勝ちを呼び込む。

加古川西との決勝では3安打の固め打ちで11-2の圧勝を導いた。


夏の甲子園に出場した3年間、東洋大姫路は春の選抜大会には一度も出場していない。

だが、夏の兵庫大会で、選抜に出場した学校をことごとく直接対決で沈めた。

72年の市神港、73年の報徳、74年の報徳、滝川。

「夏の東洋」と称されるゆえんだ。


当時の4番打者で、現在母校を率いる藤田明彦(61)は振り返る。

「田中治監督、梅谷馨コーチの指導で5の力を6、7にしてもらった。

2人から『甲子園は夏しかないもんや』と常々言われていた」。

鬼気迫る練習を重ねて地力と執念を培い、毎年のように夏にチームを昇華させた。


3連覇時の監督、田中治は身長180センチ、体重120キロの大男。

「(戦時中の)予科練の死に損ない」が口癖だったという。

45年8月20日に鹿児島・知覧から特攻隊員として出撃する計画だったが、直前に終戦。

数奇な運命をたどった。


田中から薫陶を受けた藤田は言う。

「20歳の時に(特攻隊員として)定まった死の日に備えて生きてこられた方。

普段から覚悟が違った」


3連覇を果たした74年限りで田中は梅谷と監督を交代。

副部長の立場で指導を続けたが、12年後の86年1月、グラウンドで倒れ、59歳で帰らぬ人となった。

「本当に早すぎた」。

部長として田中を支えた大久保強(80)は今もそう悔やむ。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)

兵庫球児100年のあしあと 28

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 28


第57回大会は淡路対決!洲本が夏初優勝を飾った。

淡路島の方々の野球愛、球児愛は熱い。

淡路から甲子園へ!と、未来の高校球児を育てる少年野球も活発だ。

よく淡路のチームの試合を観戦するが、淡路勢が出場する対戦のスタンドは

OBの方々や多くの地元の方々の声援で沸く。

現在では明石海峡大橋を使い行き来できるようになったが、橋ができる前は、

「たこフェリー」の名で親しまれているフェリーに揺られ明石海峡を渡る手段しかなかった。

私も若かりし頃、たこフェリーオンリー手段の時代よく船に揺られて淡路へ渡った。

橋ができて以来フェリーで淡路に渡ったことはないが、ノンビリ旅気分の船旅が懐かしい。

現在はジェノバラインが運航されていて、島から船を使って毎日通学する学生さんが居たり、

明石の船着場から徒歩で来ることができる明石球場へ船で来られる方も居て、

淡路の方々にとって無くてはならない親しみのフェリーだ。

この時、明石港から島へフェリーで揺られてくる洲本ナインを多くの方が手を振り笑顔で迎えた姿が目に浮かぶ。


第58回大会は、市神港が甲子園へ帰った最後の夏となった。

もう市神港を甲子園で観ることはできないが、後身の神港橘が今夏初めて単独出場し新たな歴史を刻み始る。

200回大会を迎える頃、神港橘ナインが多くの輝くあしあとを残していたらいいなと思う。


第57回大会(1975年)

~史上初めての淡路島対決~


淡路島同士の第57回大会決勝を制し、表彰される洲本ナイン


洲本と津名が激突した1975(昭和50)年の第57回大会の決勝。

史上初となる淡路島決戦は洲本に軍配が上がった。


洲本は腰を痛めて登板を回避していたエースの左腕山家泰臣が準決勝の東洋大姫路戦でマウンドへ。

4連覇を狙う強豪相手の大一番で1失点完投。

準々決勝で報徳を破って勝ち上がってきた津名との決勝は、

同点の六回に二宮徹の適時三塁打などで2点を勝ち越し。

山家が準決勝に続いて1失点で完投し、3-1で制した。


53年の選抜大会で初出場初優勝の快挙を果たした洲本だが、夏の甲子園切符は初めて。

船で帰淡したナインを待つ洲本港は、老若男女で埋め尽くされた。

当時の遊撃手、野水直哉(60)は、

「あの光景を見て自分らが優勝したんだと実感した」と懐かしむ。

淡路島を二分した戦いは、今も多くの人の心に焼き付く。



第58回大会(1976年)

~古豪・市神港 最後の栄冠~


第58回大会で頂点に立ち、優勝旗を手に行進する市神港ナイン


1976(昭和51)年の第58回大会は市神港が8年ぶり7度目の優勝を飾った。

2018年3月に学校統合により閉校した同校にとって、これが最後の栄冠となった。


傑出した選手が不在のチームは粘りを武器に進撃した。

3回戦の篠山鳳鳴戦、4回戦の津名戦は逆転勝ち。

準決勝の三田学園戦も九回に追い付き、延長十回に勝ち越すなど、終盤の底力が光った。

東洋大姫路との決勝は四回に一挙6得点し、6-0で完勝した。


大正期の1917年に創部した古豪は、第一神港商時代の選抜大会2連覇を含み、全国大会出場は春夏15度。

山口高志(元阪急)、吉田孝司(元巨人)、宮本幸信(元阪急、広島など)ら数々の名選手も巣立った。

輝かしい歴史を刻み、創部100年を迎えた2017年夏、栄光に幕を下ろした。


神戸新聞 宮崎真彦氏

兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)

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