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兵庫球児100年のあしあと 40

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 40

第76回大会は、前年全国制覇を果たした育英との兵庫大会決勝で1得点に涙した姫路工業が

兵庫大会史初となった飾磨との姫路対決を制し初優勝、甲子園への道を開いた。


第77回もチームの歴史を変えた尼崎北が初優勝。

あの阪神淡路大震災のあった夏だった。

自分自身、震災の被災者であったあの時、選抜が開催できるのか・・・

という状況は遠目に耳ににていたけど、生活再建に奮闘していた頃。

選抜も夏の甲子園も全く記憶にはない。

というのも、この頃、私は高校野球に全く興味がなく、

一度もテレビでも甲子園、高校野球というスポーツを観たことがなかった。

興味がなかったというより、野球自体が好きじゃなかったのだ。

だからこの年だけじゃなく、それまでの高校野球、野球自体に目を向けたことはなかった。

今の自分があるのが・・・自分でも不思議。

私が野球嫌いだった?と、今を知る方は目を丸くするだろうなっ@@。。。

もうすぐこの白球回想 夏の兵庫大会史にその真相の時がやってくる。


第76回大会(1994年)

~姫路工台頭、公立の雄に~


第76回大会で初優勝を果たし、福井薫監督を胴上げする姫路工ナイン


公立の雄として台頭した姫路工は「旬」を迎えていた。

前年の兵庫県大会は春優勝、夏準優勝、秋準優勝。

秋の近畿大会では4強入りし、甲子園初出場となった1994(平成6)年の選抜大会でベスト8に進んだ。


同年春の県大会は3位に入り、近畿大会で4強進出。

優勝候補の筆頭格として挑んだ第76回兵庫大会は初戦の2回戦こそ川西北陵に3-2で

九回逆転サヨナラ勝ちと薄水を踏む思いだったが、尻上がりに調子を上げて決勝へ。


大会史上初の姫路決戦となった飾磨との戦いは2-0で制した。

創部47年目での悲願達成。

「選手が最後に甲子園で成長した力を発揮してくれた」

と目を細めた監督の福井薫は溶接科教論で、当時46歳だった。


神戸勢の連続優勝を6でストップさせ、公立としては7年ぶりの栄冠。

16強のうち10校を占めるなど公立勢が躍進した。


第77回大会(1995年)

~震災乗り越え尼崎北制す~


第77回大会決勝を制し、夏の甲子園初出場を決め、大喜びする尼崎北ナイン


1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、被災地の球児たちにも大きな影響をもたらした。

ただ、一時は開催が危ぶまれた選抜大会は神港学園、育英、報徳の3校が

そろって初戦を突破し、地元に明るい話題を提供した。


春の兵庫県大会は選抜出場全3校を直接対決で破った村野工が初優勝。

迎えた第77回兵庫大会では初めて、グリーンスタジアム神戸

(現ほっともっとフィールド神戸)での試合が組まれた。


村野工と選抜出場3校が準決勝までに姿を消す中、

決勝は春の県大会4強の尼崎北とノーシード神戸弘陵の対戦に。

エース越智崇を中心にチーム一丸となった尼崎北が郡雄割拠の大会を制した。


選抜大会は4度の出場歴を誇るが、夏の甲子園は創部45年目で初めて。

母校を率いた31歳の植田茂樹は「ありがとうと言いたい」と後輩たちに感謝した。


神戸新聞 大原篤也氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


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第62回大会(1980年)


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第72回大会(1990年)


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第73回大会(1991年)
第74回大会(1992年)


兵庫球児100年のあしあと 39
第75回大会(1993年)


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