白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 38は、73回大会、74回大会とも初優勝校の誕生。
73回大会は、現在身近に応援させていただいている神戸村野工業。
記事に出てくる安達投手は一昨年亡くなられた。
安達氏は阪神タイガースを退団後多々の経緯を経て、
中学硬式チーム美蹴館ロケッツの監督さんを務められていた。
私の幼馴染のご主人と深い親交があり、あれは2010年だったか・・・
その幼馴染の息子がヤングリーグのチームで野球をしていた時、
対戦した際に一度だけ安達氏にお会いしたことがある。
あの安達氏が・・・まだ41歳というお若さでの訃報に衝撃を受けた。
その安達投手擁する神戸村野工業は春夏連続の甲子園出場を果たした。
幼少期患っていた小児がんを克服し野球道へ。
プロ野球選手まで登りつめた安達氏は、甲子園への道を切り開いた村野工業の球歴に大きな名を残す大投手だ。
この優勝から27年。
100回目の夏、後輩たちが甲子園で輝く姿を空の上から見て欲しい。
ご縁いただいた村野工業の選手たちが27年ぶりの甲子園を目指す夏を気持ちを込めて応援したい。
74回大会は、神港学園の初優勝。
昨年ご勇退された北原光広元監督さんの初甲子園であった。
神港学園チームTシャツの背中にある「この一球」の意味をこの記事で知った。
現チーム主将の佐々木選手のお父さんは村野工業の選手だった。
よくお会いするがとても気さくな方だ。
そこにも繋がりがあり、村野工業とは不思議なご縁を感じる。
神港学園はこの後78、85回大会でも優勝を遂げているが、
今夏、北原直也新監督さんと15年ぶりの甲子園を目指す。
200回を迎える時、北原新監督さんの胴上げのシーンが記事になっていたら素敵だ。
第73回大会(1991年)
~安達擁し村野工初V~
第73回大会で初優勝に導いた村野工の安達智次郎投手
1991(平成3)年の第73回大会は、140㌔超の速球を誇る大型左腕の2年生エース
安達智次郎を擁した村野工が悲願の初優勝を飾った。
ノーシードからの発進だったが、3回戦で神戸弘陵を1-0で退け、勢いに乗った。
安達は後に「誰も甲子園に行くとは思っていなったでしょう」と回想する。
同級生の黒田哲史(元西武など)とともに、翌春の選抜大会にも出場した。
21(大正10)年創部の古豪だが、甲子園出場は78年春の選抜大会が初めて。
計3度の聖地で、まだ白星は挙げられていない。
安達は松井秀喜(元ヤンキースなど)の外れ1位で阪神に入団。
けがなどもあって1軍出場はなく、99年限りで現役を退いた。
打撃投手を経て神戸市内で飲食店を経営していた2016年、内蔵疾患のため亡くなった。
41歳の若さだった。
第74回大会(1992年)
~神港学園、大願成就~
第74回大会で初優勝を飾り、胴上げされる神港学園の北原光広監督
直近4年間で3度目の決勝進出。
1992(平成4)年の第74回大会で神港学園がとうとう大願を成就させた。
準決勝で選抜8強の育英を撃破すると、決勝では春の県大会覇者・滝川第二を退けた。
前年準優勝の悔しさを知るエース井上立暁を中心に、旧私神港時代の82年から
指揮を執る北原光広監督が執念を見せた。
好投手として注目された岡山・倉敷商高時代、暴投でサヨナラ負けした苦い経験から
一つ一つのプレーにこだわってきた北原監督。
「この一球」を座右の銘とし、阪神・淡路大震災の影響で開催が危ぶまれた95年の選抜大会で
8強に進むなど、春夏計8度の甲子園で8勝を挙げた。
指揮官は2017年度限りで退任。
選手時代に父子で甲子園に出場し、コーチ、部長としてチームを支えてきた長男直也にタクトを託した。
神戸新聞 大原篤也氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)
兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)
兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)
兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)
兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)
兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)
兵庫球児100年のあしあと 36
第70回大会(1988年)
第71回大会(1989年)
兵庫球児100年のあしあと 37
第72回大会(1990年)
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兵庫球児100年のあしあと 38
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