白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 33
兵庫県は南北にも広い。
東西には鉄道での移動も便利な兵庫だけど、南北の移動はなかなか大変だ。
兵庫県北部にある豊岡こうのとり球場や春日球場へ試合を観に行くには
兵庫県民でも小旅行のような距離となる。
現在でも阪神間のチームが、こうのとりで~?!大変!と思う試合も時々ある。
1982年 第64回大会から試合会場の配慮がなされたそうで、
朝イチの試合チームにとっては大きな改革だったと思う。
第64回大会の覇者は、第59回大会で全国制覇を達成した東洋大姫路。
甲子園ではベスト4まで勝ち上がった。
あのミスタージャイアンツ長嶋茂雄氏が絶賛した選手が兵庫県の最北端
そこは日本海が広がる新温泉町に居た。
高校球児が目指す『甲子園』は、青春のすべて、宝、より大きくしてくれた師と語る。
一人も多くの兵庫球児が、このように思える高校野球であってほしいと思う。
記事には6度目の優勝を飾った東洋大姫路球児の歓喜の光景が紹介されているが、
その喜びの横で悔しさにじませ下を向く市川の選手に胸熱くなる。
この光景に感じる切なさは、いつの時代も変わりない。
第1回大会には、たった7校だった出場校が第65回大会には152校となった。
現在は更に増え、今夏は162校
(2017年は市立神港と神港橘の連合チームがあり163校162チーム)が甲子園を目指す。
第65回大会には、一昨年第の98回大会 33年ぶりに悲願の優勝を果たした市立尼崎が優勝。
第59回大会(優勝 東洋大姫路)、第61回大会(優勝 明石南)二度の決勝進出も甲子園へあと一歩。
三度目の決勝進出でようやく掴んだ甲子園きっぷだった。
98回大会優勝時の前田主将(現日体大野球部)のお父さんとはちょっとしたご縁があり
親しみを込めて読ませていただいた。
64回大会の市尼球児は観ていないが、前田主将率いる市尼球児を甲子園で観た時のように
はつらつと甲子園で輝いた姿が浮かぶ。
三度目の正直・・・
市立尼崎は連続決勝進出ではない3度目の決勝だったが、
第1回大会から3年連続決勝へ進出した明石中(20~22回大会)、育英(33~35回大会)がある。
一際悔しさ感じる記録。
近々では97回~99回の3年、明石商業が涙した。
今夏4度目の挑戦で初の優勝を飾り歓喜の輪が見られるか・・・
楽しみな夏だ。
第64回(1982年)
~中播磨決戦、東洋に軍配~
第64回大会で市川を破って優勝を決め、喜ぶ東洋大姫路ナイン
1982(昭和57)年の第64回大会から、シード校の4回戦までの試合が近くの球場で固定された。
例えば北播の有力校・社。
前回の組み合わせでは初戦の2回戦が神戸市民、3回戦姫路、
4回戦尼崎記念だったが、今回はすべて明石となった。
準決勝は東洋大姫路2-1報徳、市川3-2育英と、いずれも1点差ゲーム。
大会史上初の゛中播磨決戦゛は10-0で東洋大姫路が勝ちどきを上げた。
5年ぶり6度目の栄冠。
甲子園では準決勝で優勝した池田(徳島)に3-4で敗れた。
元巨人監督の長嶋茂雄が「三拍子そろった素晴らしい選手」とほれ込んだ
浜坂中(兵庫県新温泉町)出身の三塁手、田中泰がチームを引っ張った。
田中は県高校野球史に
「甲子園は私の青春のすべてであり、宝であり、私をより大きくしてくれた師である」と寄稿している。
第65回大会(1983年)
~市尼崎、三度目正直~
第65回大会で洲本を破り初優勝し、場内を行進する市尼崎ナイン
須磨友が丘、川西西陵、三木北、神戸弘陵が初出場した1983(昭和58)年の
第65回大会参加校は152校を数えた。
全国49の地方大会では神奈川、大阪、愛知に次ぐ4番目の多さ。
ベスト8は同年の選抜大会に出た高砂南をはじめ市尼崎、洲本、尼崎小田、
県尼崎、東播工と公立校が6校を占めた。
残る2校は滝川と三田学園。
4年ぶりの公立決戦は池上隆寛(元ヤクルト)が3番を打つ市尼崎が8-0で洲本を下して初優勝した。
これまで2度、決勝で涙をのんだ悔しさを「三度目の正直」で晴らした。
洲本は2年生投手川畑泰博(元中日など)が進撃を支えた。
市尼崎もエースは同じ2年生の宮長貞行。
母校は2016年夏の甲子園に2度目の出場を果たした。
アルプス席で応援した宮長は「33年前の光景がだぶった」と取材に答えている。
神戸新聞 吉岡猛逸氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)
兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)
兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)
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兵庫球児100年のあしあと 33
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