白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 26
第52回は洲本を9-2で破り6年ぶりに滝川が甲子園へ帰ってきた。
第53回大会は、17-1と報徳学園が圧勝で優勝。
47回から49回大会の3連覇後、4年ぶりに頂点に。
惜しくも準優勝となった山崎が取り上げられている。
山崎にはご縁がある。
山崎の名を見て、あの夏を懐かしく思い出した。
選手の親御さんとの必然な出逢いがあり、2015年 三年生の夏を見届けさせていただいた。
私にとっても熱く素敵に記憶に残る夏だった。
2015 夏のmemory♪ 第97回全国高校野球選手権 山崎 宝塚東球児たちの夏の始まり☆彡
2015 夏のmemory♪第97回全国高校野球選手権兵庫大会3回戦 北摂三田vs山崎 全力の夏☆彡
卒業に贈ったブログ
まりあマネージャーさんからのコメントが私の励みになった。
山崎高校野球部3年生選手のみなさん 卒業おめでとう☆.。.:*・゜
とても明るく大好きなチームだった。
その前年には生野とのご縁もあり、どちらの高校も長閑な地域の学校で
土地柄か地元の選手ばかりで部員数も多くないのですが、
それだから何か選手同士の絆を深く感じる温かい雰囲気を持ったチームの野球に触れ、
この頃は、そういう土地柄の中にあるチームをもっと観てみたいなと関心が深かった。
この年の山崎には選手以上のムードメーカー、19番目の選手と言って過言ではない
チームには無くてはならなかったまりあちゃんというマネージャーさんが居た。
選手を鼓舞する姿とはかけ離れた可愛らししい素敵な彼女は笑顔もたくさん向けてくれた。
まりあちゃん、あの夏の選手たちは元気にしているかなぁ~。
山崎は99回の兵庫の夏の歴史の中で、この53回大会準優勝が最高成績となっている。
今夏は西兵庫に入る山崎、100回目の夏に播磨の奥から新風を吹かせてもらいたい。
第52回大会(1970年)
~滝川、宿敵破りV奪回~
第52回大会で6年ぶりの頂点にたった滝川ナイン
(兵庫県高校野球史より)
1970(昭和45)年の第52回大会は名門、滝川が6年ぶりに王座を奪回。
春夏連続の甲子園出場を遂げた。
この夏の最大のライバルは三田学園。
淡口憲治(元巨人など)、羽田耕一(元近鉄)ら強打者が並び、選抜大会では8強入りした実力校だった。
両校は兵庫大会準決勝で激突。
1点を争う接戦は七回に滝川が勝ち越し、4-3で振り切る。
三塁手兼投手の亘(わたり)栄一郎からエース松田正彦への継投で大きな山場を乗り越えた。
亘は日大を経て母校の指導者に転じた。
滝川第二戦では監督を努め、88年に滝川の伝統を受け継ぐ同校を初めて夏の甲子園に導いた。
自身の高校時代を振り返り「バントや盗塁など、できることを確実にできる選手がそろっていた」と話す。
65歳を迎え、昨年県高野連から指導者表彰を受け、長年の功績をたたえられた。
第53回大会(1971年)
~山崎、快進撃の準優勝~
第53回大会準決勝、山崎ー津名戦から
(兵庫県高校野球史より)
西播磨から強烈な風が吹いた。
1971(昭和46)年の第53回大会は山崎が初の決勝進出。
甲子園には届かなかったが、公立校の快進撃は山間部のまちに夢を抱かせた。
宍粟郡(現宍粟市など)の力ある中学生が集まり、
育英出身の石田広志監督の下、「3カ年計画」で強化。
打撃を重視したチームは4試合でコールドゲーム勝ちし、
準決勝までの6試合で計46得点をたたき出した。
決勝は報徳に1-17の大敗を喫したが、試合後、
山崎町役場(当時)に戻ったナインは大歓声で出迎えられた。
健闘をたたえる花吹雪が舞い、役場から同校までの道のりをパレードした。
同年のドラフトで巨人から4位指名を受けた主砲の尾形正己(65)は
「(パレードの)光景は忘れられない。あの夏が後々の野球人生の心の支えとなった」。
尾形はプロ入りせず、新日鉄広畑(当時)で選手、監督として活躍した。
神戸新聞 宮崎真彦氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)
兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)
兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)
兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)
兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)
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兵庫球児100年のあしあと 26
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