白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 22
43回大会は、今では兵庫の強豪校として追われるチームの報徳学園が初優勝。
創部は1932年(昭和7)、18回大会 明石中が初優勝を飾った年。
今では報徳学園と言えば「逆転の報徳」という代名詞は有名になっているが、
創部から29年の時を経て掴んだ甲子園、この夏が逆転の報徳の原点となった。
この43回大会が報徳学園の甲子園初出場だということに今の強さを知る自分には少し驚きだった。
こうして一つひとつチームの歴史を築いて今があることが感慨深い。
44回は、4度目となる滝川が優勝。
ここまでは優勝したチームを中心に書かれていたが、この大会に関しては
準優勝校の柏原が取り上げられている。
勝利した裏には同じだけ頑張った敗者が居る。
それを残す・・・
自分がこのブログを書いている中で一番心に置いている部分であるので何だかこの記事は嬉しかった。
この当時の選手たちは今もこの時の野球話を肴に華を咲かせ語り合っておられるそう。
素敵な笑顔が浮かぶなぁ~。
第43回大会(1961年)
~誕生「逆転の報徳」~
第43回全国選手権で逆転勝ちを決める報徳。
初の甲子園で一躍名をはせた
延長十一回裏に6点差を追い付き、十二回裏にサヨナラ勝ち。
1961(昭和36)年 夏の甲子園1回戦、岡山・倉敷工相手に奇跡的な試合を演じ、
今に受け継がれる「逆転の報徳」は誕生した。
創部は昭和初期の32年。
大逆転を遂げた61年の第43回が甲子園初出場だった。
当時の捕手、高橋尤二(74)は回想する。
「育英、滝川が強くて甲子園なんて頭にもなかった」
兵庫大会から神懸かっていた。
準決勝の兵庫工戦は五回表を終えて0-6。
大敗ムードが漂う中、五回裏に猛追。
一挙6点を奪って追い付き、七回に勝ち越す逆転劇を起こした。
決勝は県尼崎に2-0で完勝し、学校創立50年で頂点にたどり着いた。
2014年まで野球部OB会長を務めた高橋は目を細める。
「報徳の原点と言ってもらえる。ありがたいことです」
第44回大会(1962年)
~柏原旋風 輝く準優勝~
第44回大会で準優勝に輝いた柏原ナイン
(横尾進氏提供)
ダークホースの快進撃は「柏原旋風」と呼ばれた。
1962(昭和37)年の第44回大会で初の決勝に勝ち進んだ柏原。
滝川に完敗を喫し、準優勝に終わったが、丹波勢で唯一、県北部の決勝進出校として名を刻む。
好投手の井尻英毅を擁し、61年春の選抜大会に初出場したが、
主力が抜けた62年は今井雅之、赤井昭一ら3年生はわずか6人。
秋春の県大会は1回戦負けで、夏はノーマークの存在だった。
ところが3回戦で春の準優勝校、尼崎北に競り勝つと、
準々決勝、準決勝もエース船越昭紀が完封。
低い前評判を覆した。
選抜出場時からレギュラーだった横尾進(74)は
「甲子園に出た次の年。『よくつないでくれた』とわが事のように喜んでくれた先輩たちの姿が忘れられない」。
半世紀が過ぎた今も当時のメンバーは学年を超えて集まり、昔話に花を咲かせるという。
神戸新聞 松本 大輔氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)
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兵庫球児100年のあしあと 22
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