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兵庫球児100年のあしあと 21

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白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 21

第41回大会の優勝校 滝川高校野球部が創部100周年を記念して、

昨日滝川第二のグラウンドに於いて、この当時宿敵とされていた育英との交流戦が行われたそうです。

滝川はこの後直近の44、46年にも優勝を果たしていますが、46年の決勝の相手も育英。

42、47年と、滝川と決勝の舞台に上がった翌年にも決勝へ進出する活躍をしている。

滝川100周年の記念の年、100回目の兵庫の夏に両校が決勝で再び顔を合わせることになれば素敵ですね。


第42回は、今で言うデーター野球の始まりを生んだ明石が優勝。

当時としては革命的な高校野球の始まりだ。


第41回大会(1959年)

~滝川・吉本 名将への一歩


就任間もないころの滝川・吉本宗泰監督(左)
瀧川野球部史より


兵庫の高校野球を長くけん引した名将が歴戦の一歩を記した。

1959(昭和34)年の第41回大会は吉本宗泰監督が率いた滝川が優勝。

母校に戻り、就任3年目で監督として初の栄冠に輝いた。

専大の監督を経て57年に就任した。

当時31歳。


若くして名門の指揮を託されたが、2年目の58年夏の兵庫大会準々決勝では

優勝した姫路南と激闘を演じて存在を誇示。

59年は県芦屋を準々決勝で破り、決勝は同じ神戸・板宿地区のライバル、育英を2-0で退けた。


華美な言動を慎み、学生野球の本分をわきまえた。

同校野球部史には「伝統ある滝川野球の継承と発展を考慮したとき、まさに適任」

と就任の経緯がつづられている。


滝川、滝川第二で32年間監督を努め、甲子園出場は春8回、夏5回。

計13回の出場は県内の歴代監督2位の記録である。


第42回大会(1960年)

~明石、土井正三の育英下す~


第42回大会で4度目の優勝を果たした明石ナイン
(兵庫県高校野球五十年史より)


1960(昭和35)年の第42回大会は伝統校、明石が4度目の栄冠に輝いた。

決勝の相手は前年準優勝の育英。

後に巨人のV9に貢献する土井正三が要を担った。

戦力的には劣っていた明石だったが、1-0で競り勝つ。

決勝の1点は名手・土井の悪送球で許した走者だった。


監督の赤松晃は旧制明石中時代の47年、選手として戦後初の選抜大会に出場。

チームメイトは元阪神の大津淳、神戸弘陵などで監督を務めた高木太三朗らで

「延長二十五回」のメンバー、横内明の薫陶を受けた世代だ。


早大出身で戦術家だった赤松監督。

当時の高校野球では浸透していなかった対戦校の事前視察を取り入れ、相手の特徴を捉えたという。

優勝時1年生だった木下裕一(73)=元明石部長=は

「試合前の分析は今でこそ当たり前だが、当時としては新しい野球だった」と述懐する。


神戸新聞 松本 大輔氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20

第1回~第40回大会(1915~1958年)


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