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昭和十七年の夏 幻の甲子園~戦時下の球児たち~

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高校野球の歴史の中で、全国高等学校野球選手権大会(当時の大会名称 全国中等学校優勝野球大会)が

戦争により昭和16年から20年5年間の空白があったことは知られていますが、

(大正7年第4回大会は米騒動により中止)

その空白の中に、全国高等学校野球選手権大会の回次には残らず、年譜にひっそりとだけ記載されている

「全国中等学校体育大会野球大会」という『幻の甲子園』と呼ばれる大会か存在していたことをご存知でしょうか。


年譜には・・・

1941年(第27回大会) 太平洋戦争の影響で地区予選の途中で中止ー1945年

1942年は、代わりに文部省主催で全国中等学校野球大会が開催されたが、

文部省の意向により全国高等学校野球選手権大会とは独立した大会とされ、通算記録にも数えられていない)

と記載だけが残っていて、この幻の甲子園での試合や、出場をした選手たちを取り巻く当時の環境や、

その後、その選手たちが辿った辛い道が書き綴られた、早坂 隆氏著書「幻の甲子園 戦時下の球児たち」という

一冊の著書の存在を知り取り寄せました。

戦時下にあったこの時代に生きた若者や人々の生きた証が詰まっており、大変興味深く、また胸詰まる想いで読ませて戴きました。

戦争については、その時代を経験したことがない今を生きる私たちにとっては現実のことと思えない悲惨で無残な・・・

出来事と言葉に表すのも躊躇してしまう時代ですが、そんな時代の中で野球が大好きな少年たちが

甲子園出場を夢に一生懸命野球に向う姿は今と変わらずに在り、今と変わらず多くの方々が

高校球児を応援し温かく見守られておられたことが少しの救いでありました。

しかし、今では考えられないような過酷な中での「大好きな野球」だったことは言うまでもない時代で、

唯一の楽しみだった野球さえ取り上げてしまった戦争を憎むしかないとも言える内容でもありました。


この当時、戦争膠着(こうちゃく)状態の中、全国の鉄道では兵士や物資を輸送することが先決で、

学生生徒の居住地足止めという規定で、球児たちは二府県以上にまたがる移動を伴う試合を禁止されており、

当然、甲子園大会も中止の途に至り、昭和16年春の選抜は実施されたものの、

その夏の第27回大会は中止、社会人野球の都市対抗も同じ運命で中止、翌年の選抜も中止という状況だった。

昭和17年の夏、全国中等学校優勝野球大会の主催である朝日新聞社ではなく、

文部省と、前年16年末に発足された大日本学徒体育振興会野球委員主催による

第1回全国中等学校体育大会野球大会が行われることとなった。

最初で最後の1回限りとなったこの大会が「幻の甲子園」である。

幻の甲子園開催にあたり、この大会だけに作られた時代を想わせる厳しい規定の中での野球をする姿があり、

それでも球児たちは夢の甲子園の舞台で飛躍し、多くの人々は歓喜に沸いた様子が書かれてありました。

当時は現在とは違い、夏の甲子園出場代表校は各県1校ではなく、

今でいう秋春の大会と同じ要領で、各都道府県で行われる1次予選の優勝チームが

分けられた地区大会へ進出し優勝チームが甲子園へ出場できるという方法が取られていたそうです。

例年の大会では23校の代表による大会でしたが、幻の甲子園では地域割りの変更により、

2つの地区に分けられていた東北地区が1つの地区となったり、福島県は4校の予選出場、

東京府(当時の名称)は南関東地区に編入、信越地区は二分化、

東海地区の三重が近畿の予選へ入ったり、この大会へ出場した近畿地区の兵庫県滝川中学が

予選地区編成割りの変更で東中国地区の代表として出場しており、

沖縄は全島で野球部が解散となっていたため南九州地区での参加はゼロであったりと、

予選地区割りだけをみても大きく例年とは違うことに、時代により廃部に追い込まれ、

野球ができなくなった球児たちが多く居たことが伺えます。


また、以前読んだKANO 1931海の向こうの甲子園でも紹介したように、

当時日本の統治下であった朝鮮や台湾、満州などの外地からの参加もあった時代ですが、

朝鮮に至っては野球禁止案発令中で予選すら行われなかったそうで、唯一、台湾の台北工業が出場しています。

予選地区割りだけではなく、大会開催における色々な規定なども、その当時の例年でも

今を思えば考えられない厳しいものであったと思いますが、更に考えられないような

信じられない規定、幻の甲子園だけの新ルールの中での大会が行われたのです。

それはそれは考えられないもので、まず選手という呼び名からして違う。

選手たちは「選士」と呼ばれ、突撃精神に反することはいけないものとされ、

打者は投手の投球を避けてはいけない・・・

今ではわざと避けないと死球とはならず逆に注意されますよね・・・

先発メンバー同士の守備位置の変更は認めるが、ベンチ控え選手との交代は

立つことができない状態を例外とし、それ以外は認めない・・・

最後まで死力を尽くして戦えという意味をも持っていたそうで、

諦めない気持ちとは全く異なった意味合いを持つ無謀な規定?・・・

容姿にも厳しく、ユニホームの校名もローマ字は禁止、漢字表記にされ

当時はまだ定着していなかった背番号も勿論なく、対戦校もクジ運などは存在しない・・・

抽選ではなく大会本部が勝手に決める。

大会の回数継承は先に書いたように無く、優勝旗の使用も却下・・・

この大会へ近畿代表として出場をした第15回大会優勝校の和歌山県海草中学には

別物の大会であるため優勝旗自体を持って来る必要はないとの通達までがあったという「幻の甲子園」です。

現代ではこんなことを言おうものなら球界から追放されるのではないか?と思うような

やはり・・・時代がそうせざるおえなかった中で、幻であれ憧れの甲子園でプレイをすること、

野球ができることを喜んだ選手たちを想うと切なすぎますね。


球児たちがここまで経てきた道のりは、決して平坦なものではなかった。

予選参加校のだけを見れば、甲子園に出場することは、現在の球児たちの方が大変かもしれない。

しかし、戦時中に甲子園を目指して野球をすることは、今とは異なる類いの苦労が絶えなかった。


と著書の早坂氏が仰るように、戦時下で野球をすること自体に反発があった時代、

日々の練習にも信じられないその様子が綴られていました。


全国中等学校体育大会野球大会 『幻の甲子園』 出場16校

北海道代表 北海中学(北海道)
東北代表  仙台一中(宮城県)
北関東代表 水戸商業(茨城県)
南関東代表 京王商業(東京府)当時の名称
北陸代表  敦賀商業(福井県)
中部代表  松本商業(長野県)
東海代表  一宮中学(愛知県)
京滋代表  平安中学(京都府)
大阪代表  市岡中学(大阪府)
近畿代表  海草中学(和歌山県)
東中国代表 滝川中学(兵庫県)
西中国代表 広島商業(広島県)
四国代表  徳島商業(徳島県)
北九州代表 福岡工業(福岡県)
南九州代表 大分商業(大分県)
台湾代表  台北工業

全国中等学校体育大会野球大会は、文部省、大日本学徒体育振興会野球委員主催であったため、

大日本学徒体育振興大会の中の一競技であり、柔道、剣道、相撲、陸上、蹴球(サッカー)や、

戦場運動と称された「手榴弾投擲(とうてき)突撃」「土嚢(どのう)運搬縦走」「行軍競走」といった

それを体育振興、競技?と位置づけるのか・・・?というような9つの競技参加者による合同開会式が

昭和17年8月22日 奈良県橿原神宮外苑運動場で行われ、

翌23日には中等野球だけの開会式が甲子園球場で行われたそうです。

開会式の様子が一枚の写真に残されていますが、スタンドは大勢の観客で埋め尽くされていて、

選手たちだけではなく、多くの人々が大会復活、野球を楽しみにされておられたことを知ることができます。



この著書の驚くべきところは、上記に書いた時代背景や何とも苦しい内容がメインではなく、

当時の選手たちへの取材や、残されたスコアーや資料からでしょうか・・・

幻の甲子園 開幕戦から決勝戦までの全15試合の詳細な内容や、

選手たちの生い立ちや、大会後、選手たちの身に起こったことなどが丁寧に残されていることです。



よくここまで細かく残されたとビックリする内容で、試合に関しては戦時下の中であった野球を忘れるくらい

頭の中にランナーを置いたりして、思わずいつも球場で観戦する時のように

野球ノートへスコアーを書きながら読み進めてしまうくらいドキドキワクワクする試合ばかりで、

録画していてもなかなか全部の試合を観るのは大変ですが、一冊の中に一大会が凝縮されていて

スタンドで全試合を観たような気持ちになる貴重な著書との出会いでした。


開幕戦は、南関東代表 京王商業と、四国代表 徳島商業の一戦。

京王商業エース宮崎投手と徳島商業エース加藤投手との投手戦となり、

0-0 の7回、裏の徳島商業は4番笹川選手、6番角田選手への四球から

Wスチールで先制のチャンスを広げ、7番梅本選手のスクイズが失敗(捕手小フライ)になり

3塁ランナー笹川選手が帰塁できずWプレイとなり、更に投手戦の末0-0で延長戦へ。

10回表 京王商業5番宮崎投手がレフト線2ベースヒットを放つと、

6番秋元選手が先制のタイムリーを放ち均衡を破ります。

更に7、8番の連続ヒットで1死満塁とし、追加点を狙い京王商業もスクイズを決行する場面や、

その裏、高松商業の攻撃に京王商業の失策絡みで1死満塁、その後の結末など

その展開がおもしろすぎて、時代の背景があることを忘れるくらいでした。

その他、1回戦の対戦組み合わせは、

北関東代表 水戸商業ー東中国代表 滝川中学東

北陸代表 敦賀商業ー北九州代表 福岡工業

台湾代表  台北工業ー近畿代表  海草中学

北海道代表 北海中学ー西中国代表 広島商業

南九州代表 大分商業ー東北代表  仙台一中

東海代表  一宮中学ー中部代表  松本商業

大阪代表  市岡中学ー京滋代表  平安中学

2回戦の組み合わせを書いてしまうと勝者が分かってしまうので省略・・・

決勝も手に汗握る展開に・・・どのチームが戦ったのでしょう・・・

と言っても本の目次を見ると分かってしまうのですが。

ぜひ本を読んで幻の甲子園での選手たちの頑張りや「試合」を楽しんでもらいたいなと思います。


「海ゆかば」

海ゆかば

水漬く屍(かばね)

山ゆかば

草生す(くさむす)屍

大君の

辺にこそ死なめ

かえりみはぜし


閉会式で決勝を戦った両チームの選手たちが、スタンドの観客と共に唄った歌だそうです。

「海ゆかば」の歌詞の意味など、覗いてみて下さい。


大会後、優勝校には文部省からのぼりのような優勝旗が贈られたそうです。

先に書いたように、この大会は主催者が異なり、全国中等学校優勝野球大会(現 全国高等学校野球選手権大会)の正史には

記録されていないことから、この大会の優勝校のある県で、その後優勝したチームが県勢初優勝とされ、

大会中に出た偉大な記録も大会史には存在にない記録となっている。

翌年18年には第2回大会が明治神宮球場で開催される予定であったそうですが、

更に戦局が悪化し開催されることなく、その後もこの大会は二度と開かれず

「幻の甲子園」は「最後の甲子園」と記されてある。


時代の流れで道具や技術の進化はあっても、いつの時代にも

野球が好きだという選手たちの気持ちはだけは変わらず今もある。

だだ唯一違うのは・・・

夏が終わり、引退ライフがないことだ。

この時代の選手たちのその後の道は戦場・・・

時代の力によって、自分の意思ではなく、これが最後の野球になるかもしれないと、

そんな気持ちで野球をしていた選手たちが可哀想でならない。

今を生きられていたら、自分たちの時代の野球を懐かしく想いながら

今の野球や球児たちの姿に目を細められることだと思う。


その後の選手たちの身に起こったことなども詳細に残されており、

おわりに・・・では、甲子園球場が大正13年に完成した時に植栽された蔦にも触れられています。

平成12年二十世紀メモリアル事業として全国の高野連加盟校4170校に蔦の種が配布されたそうで、

平成19年に改修工事のために甲子園球場を覆っていたあの蔦は伐採されて今の蔦のない外壁になったのですが、

その時の蔦の種を育てた苗木から集め現在、その蔦が甲子園球場へ里帰りを実現し育っているそうです。

この幻の甲子園へ出場された選手の中には大正13年、甲子園球場が完成した年に生まれた選手も少なくないそうで、

甲子園の蔦と同い年ということになります。

一度は伐採された蔦ですが、再び甲子園へと戻り、


戦前から連なるこの蔦は、横風に時折、身を揺らしながら、新たな緑を萌やし続けている。

これからも、この国に夏が訪れるたび、若葉のような球児たちを迎え入れることであろう。

志半ばで散った命も少なくなかった。


8月15日の終戦の日の正午に行われる黙祷に、


かすみゆく夢の切れ端の足音に、耳を澄ませたい・・・と締めくくられている。

そして、甲子園が再び蔦に覆われる頃、大会は100回目を迎えるはずである。

それは、本当は101回目の夏の声だ・・・とも。


毎年夏の大会期間中に行われる終戦の日、戦争でお亡くなりになられた方々を偲び黙祷を捧げる時には、

ぜひ、戦争で犠牲となった選手たち、そしてこの幻の甲子園で頑張った球児たちのことも

そっと想ってあげてほしいなと思います。

貴重な記録(選手)との出逢いに感謝致します。

昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち



昔を書いた著書などは年号もたくさん並び、球児のみなさんには少し読み辛いかもしれませんが、

本は自分の知らない世界に行くことができるし、出逢ったことのない人にも出逢うことができます。

そして、日々忙しい毎日に、ふと無になれる貴重な時間です。

毎日10分でもいいので、スマホを触っているその10分を使って本を読む習慣を付けると良いですよ。


次は一緒に取り寄せた石丸投手の記憶を辿ってみたいと思います。

「戦火に散った投手 石丸進一 消えた春」


実はこの著書も随分前から手元にある一冊
少し読みましたが、やはりこの時代を読むには気持ちが進まずそのままに。
偉大な記録を持つ 嶋 清一投手の記憶もまた辿ってみたいと思います。

嶋清一 ―戦火に散った伝説の左腕


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