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兵庫球児100年のあしあと 27

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春が進む中、合間をみてボチボチ紹介してきた白球回想も、

現在手元には74回大会(1992年)まで届いている。

週末は県大会や近畿大会の記事が入るので白球回想はお休みとなるが、

取材して記事にして紙面で読者に届ける・・・

時間のある私なのになかなか追いつけなくて、新聞記者さんの凄さを感じる。

夏の兵庫大会、近畿大会も昨日終了し、もうすぐ始まる夏へ気持ちがはやりますが、

もう少し時間があるのでそれまでの間、白球回想を急いで追いかけ追い付きたいなと思います。


白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 27


東洋大姫路の3連覇を導いた故 田中治監督さんの運命にも触れ、

早すぎる旅立ちが悔やまれますが、ふと・・・我が父の旅立ちが頭によぎった。

私の父は何より大好きな釣りをしながら逝ってしまったのですが、

よく・・・こよなく愛する事(愛する場所で)をしながら死ねるなら本望という言葉を聞くが、

生きがいとしていた釣りをしながら旅立てたことは、今となっては父にとっては本望だったのかなと。

田中監督さんは大好きな野球をしながら、大好きな東洋大姫路の選手たちに囲まれグラウンドで旅立たれたそうで・・・

特攻隊員として散る命を想うと、大好きなグラウンドで旅立った田中監督さんは幸せだったのかも。

今、空の上から東洋大姫路の選手たち、そして藤田監督さんを甲子園へ導くため見守られておられるのかなぁと。

感慨深い記事だった。

今夏は西兵庫で甲子園を目指す東洋大姫路。

現選手たちは田中監督の事を知らないけれど、藤田監督んと田中監督さんは現在に繋がっている素敵なご縁があり

ぜひぜひ、藤田監督さんの背に田中監督さんのことを少しでも感じてもらえたらと思うし、

東洋大姫路野球部の偉大な歴史を築いた 故 田中監督さんをそっと心に置いて、

藤田監督さんと共に再び「夏の東洋」呼ばれる時代を築いてもらいたいなと思います。

そして、55回大会を迎える前、志半ば同じくグラウンドから旅立った池尻一平選手を偲んで・・・

東洋大姫路球児が果たした輝く3連覇時代を紹介したいと思います。


第54~56回大会(1972~74年)

~「夏の東洋」、魂のV3~


東洋大姫路の黄金期を築いた田中治監督
(東洋大姫路野球部創部40年史より)


第56回大会で戦後3校目の3連覇を果たし、優勝旗を受け取る東洋大姫路ナイン


高校野球界にとどろく「夏の東洋」の異名を確かにした。

1972(昭和47)年の第54回大会から3年連続優勝。

63年の創部から10年で東洋大姫路が牙城を築き上げた。


初優勝以来、3年ぶりの栄冠に輝いた第54回大会は決勝で市神港と顔を合わせた。

伝統校との決勝は2-2の六回から膠着(こうちゃく)。

延長十五回表、2番打者の井上光一が決勝の適時三塁打を放ち、死闘にけりをつけた。


翌73年の第55回大会はチーム内の危機を乗り越えた。

5月に4番打者の池尻一平が練習中に心臓麻痺で急死。

中心打者を亡くす悲しみに包まれる中、エース福井幸次は

右手のけんしょう炎の痛みに耐えながら力投を続けた。


名門・滝川との決勝は1点を追う六回に試合をひっくり返した。

1死一、三塁からの内野ゴロが相手守備の乱れを誘って命拾いすると、

満塁からの内野ゴロが相手のグラブをはじき、2者が生還。

しぶとい攻めで2連覇をたぐり寄せた。


74年の第56回大会は、後に阪急で活躍する弓岡敬二郎が1年生で1番・遊撃を担う。

走攻守の三拍子が備わった黄金ルーキーは準決勝の滝川戦、

3-3で迎えた九回裏2死からヒットでつないでサヨナラ勝ちを呼び込む。

加古川西との決勝では3安打の固め打ちで11-2の圧勝を導いた。


夏の甲子園に出場した3年間、東洋大姫路は春の選抜大会には一度も出場していない。

だが、夏の兵庫大会で、選抜に出場した学校をことごとく直接対決で沈めた。

72年の市神港、73年の報徳、74年の報徳、滝川。

「夏の東洋」と称されるゆえんだ。


当時の4番打者で、現在母校を率いる藤田明彦(61)は振り返る。

「田中治監督、梅谷馨コーチの指導で5の力を6、7にしてもらった。

2人から『甲子園は夏しかないもんや』と常々言われていた」。

鬼気迫る練習を重ねて地力と執念を培い、毎年のように夏にチームを昇華させた。


3連覇時の監督、田中治は身長180センチ、体重120キロの大男。

「(戦時中の)予科練の死に損ない」が口癖だったという。

45年8月20日に鹿児島・知覧から特攻隊員として出撃する計画だったが、直前に終戦。

数奇な運命をたどった。


田中から薫陶を受けた藤田は言う。

「20歳の時に(特攻隊員として)定まった死の日に備えて生きてこられた方。

普段から覚悟が違った」


3連覇を果たした74年限りで田中は梅谷と監督を交代。

副部長の立場で指導を続けたが、12年後の86年1月、グラウンドで倒れ、59歳で帰らぬ人となった。

「本当に早すぎた」。

部長として田中を支えた大久保強(80)は今もそう悔やむ。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


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第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


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第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


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第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
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兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


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