白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 24
兵庫の夏99回大会の中で3連覇という輝かしい記録を創ったチームは、
第2回~4回大会の関西学院中、第33回大会~35回大会の芦屋、
そしてこの第47回大会~49回大会の報徳学園。
この後、第54回大会~56回大会に登場する東洋大姫路の4校。
第10回~13回大会に至っては、第一神港商業が4連覇。
他に4連覇を成し遂げたチームは無い。
これからの100年に、またそんな凄いチームが現れるだろうか・・・
2連覇をすることも強さぶつかり合う難関の現在の兵庫。
だからこそ現れるかもしれないな。
「練習は嘘をつかない」
逆転の報徳ナインは「黒鬼」の名を持つ清水監督さんの下、猛練習し3連覇という偉業を成し遂げる。
甲子園の土を踏んだ時、苦しかった猛練習に耐え頑張ったことが報われる瞬間。
「黒鬼」監督と歩んだ野球道、色褪せることのない青春時代の一頁ですね。
第47~49回大会(1965~67年)
~報徳、無敵の3連覇~
報徳の監督退任後、社会人野球の神戸製鋼を指揮し、都市対抗優勝に導いた清水一夫氏。
2004年、73歳で死去した=1977年撮影
1961(昭和36)年の第43回全国選手権で大逆転劇を演じ、鮮烈な甲子園デビューを飾った報徳。
4年後の第47回大会から戦後2校目の兵庫大会3連覇を達成し、県内屈指の強豪に駆け上がっていく。
65年の第47回大会は、エース谷村智博を中心とした堅守で勝ち進む。
学生マネージャーの東照久が縁の下で支えたチームの結束力は固く、
制球のいい谷村をバックが無失策でもり立て、完封勝ちは4試合を数えた。
同年の選抜大会に出場した育英との決勝は、後の300勝投手、鈴木啓示(元近鉄)との投げ合い。
八回まで互いにゼロを並べる緊迫の投手戦は九回裏、報徳が1点をもぎ取り、劇的な勝利で甲子園をつかむ。
一方、育英の鈴木は前年決勝の滝川戦に続き、2年連続0-1で涙をのんだ。
甲子園でも2試合連続完封を演じた谷村は関学大、鐘淵化学を経てプロ入り。
阪神、阪急で通算72勝を挙げた。
同校野球部八十周年記録誌(2012年発行)の中で谷村は
「毎年200、300球の投げ込みは当たり前。
肋骨(ろっこつ)にひびが入っても投げた日もあった」
と過酷な高校時代を回想している。
「黒鬼」の猛練習、不動の名門へ
2度目の兵庫大会優勝を果たし、第47回全国選手権で入場行進する報徳ナイン
66年の第48回大会は、4回戦で再び育英をサヨナラで下すと、
決勝は淡路勢初の頂点を目指した洲本を5-2で退ける。
2年連続で出場した夏の甲子園大会では2回戦で主砲・荒武康博(元西鉄)が
満塁本塁打を打つなど、前年を上回るベスト4入りを果たした。
春の選抜出場校として臨んだ67年の第49回大会は、県内ではもはや無敵の存在だった。
準々決勝で育英に8-0、決勝も三田学園に4-0。
3年連続優勝の快挙とともに、前年夏から3季連続甲子園出場を決めた。
甲子園でも前年に続いてスタンドを沸かせる。
1回戦の埼玉・大宮戦は1点をリードされた九回2死から追い付き、さらに本盗を決めてサヨナラ勝ち。
土壇場で奇策を敢行し「逆転の報徳」の真骨頂を発揮した。
兵庫大会3連覇に導いた監督は、OBの清水一夫。
中大を経て市神港の監督として63年の選抜大会に出場した後、母校に復帰した。
猛烈な練習で知られ、ついた異名は「黒鬼」。
65年優勝時の主将、朝山彦一(74)は
「ノックは1人がエラーすれば一からやり直し。
へとへとでもボールを取りにいく姿勢をみせないと怒られた。
県内では3、4番手だったが、練習量では他に負けていない自負があった」
と思い起こす。
清水は10年間監督を努め、甲子園出場は春3回、夏4回。
基満男「元大洋など)、水沼四郎(元広島など)、松本匡史(元巨人)ら
数人にプロ選手を育て上げ、報徳の名を球界に響かせた。
72年に退任。
後に選抜大会優勝を果たす慶大出身のOB、福島敦彦にタクトを託した。
神戸新聞 松本 大輔氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)
兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)
兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)
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兵庫球児100年のあしあと 24
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