白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 13
「幻の甲子園」
多くの球児たちの夢は戦争に閉ざされ叶うことはなかった27回大会。
こんなに平和の中で野球ができる時代がやってくることを
この時代の選手たちは想像もできなかっただろうと想うと切なくなる。
戦時下に開かれ、大会の回数に数えられていない1942年の夏の兵庫大会。
開幕を伝える同年8月3日付 神戸新聞紙面
第27回大会(1941年)
〜軍事色強まり大会中止〜
軍事態勢が強まった1941(昭和16)年は異例の大会となった。
文部省(当時)は全国規模のスポーツ大会の禁止を通達し、8月に予定された全国中等学校優勝野球大会は中止。
第27回兵庫大会は1回戦10試合、2回戦2試合を行った時点で打ち切られ、優勝校は決まらなかった。
文部省通達前に開かれた41年春の選抜大会には滝川中(現滝川)が出場。
別所毅彦は腕を骨折しながら投げ続け「泣くな別所 センバツの花」と称賛された。
中軸には後に巨人などで活躍する青田昇が座ったが、戦争の影響で夏は道半ばで閉ざされた。
翌42年夏は滝川中が甲子園に勝ち上がったが、戦時下で文部省主催の
「全国中等学校体育大会」として開かれたため、元来の大会に数えられず
「幻の甲子園」と称されている。
神戸新聞 松本大輔氏
兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~
兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
~第2~4回 関学中3連覇~
~第5回 神戸一中 初の全国制覇~
兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
~第一神港商 未倒の4連覇~
兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~
兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~
兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV
兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~
兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
~育英商、名門の道~
第22回大会(1936年)
~育英商V2、全国区に~
兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)
~滝川中、念願の初優勝~
兵庫球児100年のあしあと 10
第24回大会(1938年)
~甲陽中、別当 薫が君臨~
兵庫球児100年のあしあと 11
第25回大会(1939年)
~関学中 戦前最後の甲子園~
兵庫球児100年のあしあと 12
第26回大会(1940年)
~北神商 最初で最後のV~