東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加さん
東日本大震災から4年目の今日・・・
あの日、テレビの画面から流てくる映像は、あまりに衝撃すぎて今でも忘れない。
あれから4年という月日が流れた・・・
遠く離れた東北の今、未だ多くの行方不明の方も居られ、未だ手付かずの地域も広く、
未だ安心して暮らせる場所も戻って来ていない多くの方々が居られ、復興というには程遠い現実を知ると心が痛みます。
自分自身、20年前の阪神淡路大震災の被災者であり、地元神戸を離れて20年、今は平穏無事に暮らせている。
あの時まだ生後2ヶ月だった長男も成人し元気に大学へ通い、2年後移住先で生まれた次男も今年大学生と成長した。
子供の成長を間近で見れることは親として何より嬉しいことですが、それも震災という防ぎようのないものに阻まれた多くの方々に、
家族や大切な方を亡くした多くの方々へ、遠くからではありますが想いを寄せて・・・
心よりご冥福をお祈り致します。
東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表 菅原彩加さんの想いに胸詰まります。
ここまで思えるようになるまでの彼女の心の葛藤や寂しさ辛さを考えると、
流した涙の何倍も、幸せに笑顔が溢れる人生を送って戴きたい・・・
そう願ってやみません。
菅原彩加さんの追悼の言葉・・・
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、
温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
全てが、今もまだ夢の様です。
しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、
震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。